岐阜城主となる
清洲会議での決定を受け、三法師は安土城に移される予定でしたが、叔父にあたる信孝が三法師を岐阜城に閉じ込めてしまいました。これを知った秀吉は、信孝ではなく三法師が幽閉されている岐阜城を攻撃。信孝は自ら降伏し、三法師は安土城の仮屋敷へと移りました。
その後、秀吉は信長の次男・信雄(のぶかつ)に三法師の後見人を任せ、三法師は9歳で元服。秀吉から「秀」の字を与えられ、「織田秀信」を名乗るようになります。秀信が13歳の時、秀吉の甥・秀勝(ひでかつ)が亡くなり、秀信は彼の居城となっていた岐阜城と13万石の土地を与えられることに。
さらに、慶長元年(1596)には、従三位(じゅさんみ)・権中納言に出世するなど、かなりの厚遇を受けていたことがわかります。
「関ケ原の戦い」で敗北
慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」では、石田三成の誘いを受けて西軍に与した秀信。岐阜城に籠城したものの、東軍の福島正則(まさのり)や池田輝政(てるまさ)らの猛攻を受け、敗北。秀信は自刃しようとしましたが、正則に止められました。その後、関ケ原の戦いは東軍の勝利で幕を閉じることになったのです。
出家し、高野山に入山する
一命を取り留めた秀信は加納の円徳寺に入り剃髪しました。その後、高野山に入山します。しかし、高野山への入山を許可されるまで、時間を要したそうです。理由として、かつて信長が高野山攻めを行ったからということが考えられています。入山後、秀信は同地に幽居し、26年という短い生涯の幕を静かに閉じました。
まとめ
わずか3歳にして、織田家の後継者に推薦された三法師(秀信)。信長の孫ということもあり、相当優遇されていたことがわかります。信長や秀吉の影響を受け続ける人生を、彼自身がどのように思っていたのか、気になります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)