この「伊賀越え」の功は家康から高く評価され、多羅尾氏はこれにより山城国(京都府)の醍醐や山科などに所領を賜っています。
また、多羅尾光俊の子孫は、幕府旗本となり、信楽(しがらき)の代官にも取り立てられ、世襲していきました。このことからも、光俊の功績の大きさをうかがい知ることができます。信楽に役所を設置し、近江・伊勢をはじめとする周辺エリアの直轄地を支配しました。信楽には、今もその代官所の跡(多羅尾代官陣屋跡)があり、当時の建物こそ現存しないものの、広大な敷地に石垣・庭園などが残り、その歴史を今に伝えています。
没落からの復活
伊賀越えの後、光俊は豊臣秀吉に従うことになりました。豊臣氏との関係を強化するもの、文禄4年(1595)の秀吉の甥で関白である秀次の事件に連座して、改易に処せられてしまいました。
これによって、多羅尾氏は没落したかに見えました。しかし、光俊の息子である次男の光太(みつもと)・三男の光雅(みつのり)の2人は徳川氏に仕えることに。そして、光雅の子・光重からは旗本に列せられたのです。まさに没落からの復活と言ったところでしょうか。
まとめ
甲賀の有力者であった多羅尾光俊は、窮地に陥っていた家康を助けました。その子孫に代官世襲を認められるという好待遇から見ても、光俊の貢献がいかに大きかったのかをうかがえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)