はじめに-多羅尾光俊とはどんな人物だったのか
多羅尾光俊(たらお・みつとし)は、本能寺の変が起きた際に徳川家康が堺から岡崎に戻ろうとしていた時に、その警護を担ったことで有名です。
そんな光俊ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-多羅尾光俊とはどんな人物だったのか
多羅尾光俊が生きた時代
多羅尾光俊の足跡と主な出来事
まとめ
多羅尾光俊が生きた時代
戦国時代には野武士のように、地侍や農民から構成された武装集団がいました。それらの武装集団は放火や略奪などを行なう盗賊集団でもあり、敗走する武士の武具や馬などを山中で略奪することもあったのです。いくら武士であっても、そういった武装集団には警戒しなければなりませんでした。
本能寺の変を起こして、山崎の戦いで豊臣秀吉に大敗した後に明智光秀は、敗走中に土民に襲われて殺害されたと言われています。
こうしたリスクもあることから、本能寺の変をきっかけに急遽、堺から岡崎に戻る必要にせまられた家康の身も危ないものでした。そこで、多羅尾光俊が一役買うことになります。
多羅尾光俊の足跡と主な出来事
多羅尾光俊は、生年が永正11年(1514)で、没年は慶長14年(1609)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
家康の伊賀越えを助ける
光俊は近江の甲賀郡を中心としたエリアを本拠地としていました。『寛政重修諸家譜』などによれば、多羅尾氏は近衛経平(このえ・つねひら)の庶子師俊を祖とし、初めは高山氏を称したと言われています。当初、多羅尾氏は六角氏に従っていました。六角氏滅亡後に、多羅尾光俊は織田信長に仕えています。
その後、天正10年(1582)に本能寺の変が起きました。この時、家康は見物のために堺を訪問中。急遽岡崎に戻ることになりますが、主要なルートは明智光秀の軍勢におさえられていたこともあり、伊賀を経由して岡崎に戻ることになりました。
しかし、伊賀のエリアは山が多いところです。当時は山間部で野武士による襲撃もあったことから、伊賀を通過するというのは容易なことではありませんでした。そこで、家臣の服部半蔵の働きもあって、甲賀・伊賀の忍者たちの警護を受けることになります。
帰国の途中、多羅尾光俊は家康を守護して功を上げたと言われています。光俊の六男・山口秀康は、配下を草内の渡しまで遣わせ、家康一行を城に迎えたと言います。
最終的に、家康は伊賀を抜けて、海をわたり、無事三河に戻ることができたのです。
【没落からの復活。次ページに続きます】