
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第10回では、孫の代まで語り継がれるほど怖がりだった漱石と、不気味な現象や霊的な体験も文学的素材として面白がった八雲の、家探しを比べてみました。
文・矢島裕紀彦
快適な借家探しに奔走する小泉家と夏目家

漱石と鏡子が熊本市下通町(通称・光琳寺町)の自宅の離れで、小さな結婚式を挙げたことは先に述べた(【小泉八雲と夏目漱石、そして妻たちとの不思議な縁】第8回:「小さな結婚式」)。実は漱石がこのとき借りていた家は、旧熊本藩の家老の妾宅だった。すぐ前が墓場である上に、その妾が不義をはたらいたため手打ちにされたという噂話まであった。決して気持ちのいい噂ではないから敬遠され、熊本市内の借家が払底している中でも、空家のまま残っていたらしかった。
漱石と鏡子は新婚生活をスタートしてわずか3か月後に、ここを引き払い、熊本市合羽町へ引っ越している。ひょっとすると、深夜、殺された女の亡霊が夫婦の寝所に現れたりして、八雲の怪談を彷彿させる恐ろしい思いでもしたのかと勘繰りたくなる。漱石はひどく怖がりで幽霊を恐れ、「怖がらない者は人間ではない」と言っていたという話は、夏目家で孫の代まで語り継がれている。
似たような話が、後年、漱石の弟子の小宮豊隆(ドイツ文学者)にあった。小宮は東北帝国大学勤務となって家族とともに仙台に移住した際、大きな屋敷を借りた。そこは元家老の家で、お手打ち騒ぎがあったため近所でも評判の化け物屋敷となってしまい、荒れ放題で借り手がなく家賃はただ同然だったのだという。それを聞いた鏡子は、
「あの人(小宮豊隆)は少し位お化けが出たって、家賃の安い方がましだ位に考えているんだろうけど、奥さんの方はそうはいかないわよ。ことに夜など、しょぼしょぼと雨が降ってきたりすると、家がだだっ広いだけに何だか気味悪くて、ろくろく寝てもいられないって話よ。可哀相に」
そんなふうに言って小宮夫人に同情し、憤慨していたという。新婚時代の自身の恐怖体験を重ねていたに違いない。
漱石と鏡子が熊本で小さな結婚式を挙げたその日(明治29年6月9日)、神戸の小泉八雲は1通の重要な手紙を受け取っていた。差出人は、帝国大学(現・東京大学)学長の外山正一。外山は前年の12月初めからチェンバレンを通じて、帝国大学に八雲を招聘したいという申し入れをし、その後、間接、直接に書簡のやりとりを続けていた。
八雲は都会暮らしは好まなかった。だが、外山は八雲の著作の素晴らしさを認め、「著作以外に何の推薦状も要らない人物」と称揚し、「熊本のような不愉快な思いはさせないから」と伝えてくる。八雲は熊本では酷使されていた。英語の他にフランス語、ラテン語も担当させられ、講義時間は週27時間にのぼったとも言われる。何度かのやりとりで、給与は熊本時代の2倍の月400円、講義は週12時間という条件で、年内にはお互い合意に達していた。八雲はこの頃、日本への帰化申請を進めていて、そのことについても、外山に予め報知していた。
年が明け、2月14日、八雲の帰化手続きが完了した。ここで、官立大学としての規約上、八雲を「外国人教師」として雇用することはできなくなった。そのことは待遇とも直結する。外山は八雲との約束通りの契約を実行するため奔走し、2か月後、ようやく議会の承認を得られた。八雲が6月9日に受け取った外山書簡は、そのことを知らせるものだった。八雲が6月10日付でしたためた返書を確認して、外山は6月16日付の正式な教員任免の申請(相伺)へと進み、7月3日付で「本年六月十六日付職第九九号伺 前英国人ラフカヂオ、ヘルン現島根県士族小泉八雲ニ文科大学講師嘱托並手当金給与ノ件特ニ認可ス」と認可が下りた。「手当ハ一ケ月四百円トシテ本年度中ハ傭外国人諸給ヨリ支給」という特別な配慮がなされていた(この配慮は1年ごとの任期延長でも引き継がれ、明治34年4月からは月額450円に昇給)。
明治29年(1896)9月7日、八雲とセツは神戸から上京した。いったん大学正門前の旅館「三好屋」に泊まって、大学から正式な辞令(9月2日発令)を受け取ると、家探しをした。神戸に置いてきたセツの養父母や息子を呼び寄せ、一緒に住む家だった。大学には官舎があったが、八雲は大学から離れた町外れに住みたいという希望があった。
牛込あたりに一軒の昔風の平屋の貸家があった。以前は旗本でも住んでいたらしく、お寺のような雰囲気で、広い庭があり大きな蓮池もあった。八雲は「面白いの家です」と言って気に入った。が、セツは門を入った途端に薄気味悪さを感じ、どうしても「よくない家」のように思われて、借りるのをやめた。あとから聞くと、そこは「化け物屋敷」で、家賃は段々と安くなってとうとう取り壊された、とのことだった。
この話を聞いて、八雲は「ああ、ですから、なぜ、あの家に住みませんでしたか。あの家、面白いの家と私思いました」と言って口惜しがったという。普通の人なら恐ろしがる不気味な現象や霊的な体験も、八雲にとっては恰好の文学的素材だった。のみならず、そうした霊的なものに対して、親しみや愛しさにも似た感覚さえ抱いていた節がある。あるとき、「桜の精霊」を描いた軸物を手に入れて、八雲は小躍りせんばかりの調子で、友人の雨森信成あてにこんな手紙を書いている。
先日上野で、何と「桜の精霊」という掛物が売りに出ているではありませんか。たったの二円六十銭だったと思います。嬉しくて飛びつかずにはいられませんでした。(略)あなたが時々寝まれる部屋にかけておこうと思います。今度またお泊まりになる折には、きれいな精霊が床の間から歩み出て、あなたを愛撫するでしょう。
小泉家の“ヤマノカミ”と漱石の顎鬚

小泉家の住まいは、結局、市ヶ谷富久町に決まった。大学まで人力車で片道1時間の距離。庭は狭かったが高台で見晴らしがよく、すぐ裏に「瘤寺」と呼ばれる寺院(自證院圓融寺)があり、境内に松、杉、椎、樫、欅、檜などの老木が枝を交差させていた。家族とともにここに5年半暮らしたが、瘤寺で大きな杉の木を伐採したり、親しくなった老僧が若い僧に代わるという事態があって、愛着は薄れていった。
明治35年(1902)3月、一家は市外西大久保に転居した。このときセツは、いつまでも借家暮らしをするより、自分たちの家を持ちたいと言った。家計を預かる中で、八雲の書き損じの原稿の裏面を利用して家計簿をつけたりしながら、セツはそれだけの貯金をしていた。探していくと、西大久保に、後ろに竹藪のある町外れの売り屋敷が出ていた。板倉子爵という人物の所有で、800坪を超える土地に50坪ほどの平屋の日本家屋が建っていた。これを買って、建て増しをすることにしたのだった。
「家づくり」の一切を、八雲はセツに任せた。八雲の希望は、「ストーブをたける部屋がほしい」「書斎は西向きに机を置きたい」ということだけだった。八雲は「西」という方角そのものを好んだが、机を西向きにするというのは、電燈など普及していないこの時代、西日を活用しての執筆や読書の時間が、目の悪い八雲にとって大切なものであったことを意味していたのかもしれない。
そもそも八雲は、東京行きは嫌だった。セツは一度は行ってみたいと夢に思い描いていた。『思い出の記』で、セツ自身が語っている。
東京に参ります時、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいというのが、私のかねての望みでした。ヘルンは「あなたは今の東京を、広重の描いた江戸絵のようなところだと誤解している」と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参ることになりました原因の一つだといっていました。「もう三年になりました。あなたの見物がすみましたら田舎に参ります」と申したことも度々ありました。
自分を抑制してもセツの思いに応えることが、いつしか八雲の優先課題となっていた。友人で米国海軍軍人のミッチェル・マクドナルドに「立派な家を建てたが費用はどのくらいかかったのか」と問われ、八雲は「私は婿養子の身の上で、妻の家がいくらかかったのか知りようがない」と答えたという。こんな逸話もある。八雲の孫(一雄の息子)の小泉時が、後年、八雲の遺稿を整理していて、そのメモの中から明らかに丸髷に結った若い頃のセツの似顔を見つけた。その左上には八雲の字で「ヤマノカミ」と書かれていた。これは何も悪い意味でなく、八雲がセツに対して、尊崇に似た気持ちを抱いていたことを示しているのではないだろうか。
たとえば、夫婦の間にはこんな出来事がある。米国の出版元とやりとりしていると、何分にも遠方なため行き違いもある。時間との兼ね合いもあるから、挿絵や表題のことを、先方が八雲に相談なしに進めたりする。八雲も凝り性で思うところがあるため、時として非常な苛立ちを覚え、激越な言葉の手紙を書きセツにすぐに投函するように言いつける。そんなときセツは言われるままに受けとりながら、いったんそれを手許にひっそり保管しておいたという。すると、何日かして、ちょっと言い過ぎたと思い直した八雲が、「ママさん、あの手紙出しましたか」と訊いてくる。セツがわざと「はい」と答えると、八雲はいよいよ後悔に沈み込む。そこへセツがひょいと手紙を出すと、八雲は大喜びして「だから、ママさんに限る」と言って、手紙の文面をやや穏やかなものに書き換える。そんなことが何度かあったらしい。セツの似顔の左上の「ヤマノカミ」の文字は、八雲が半ば自嘲気味にへりくだり、自戒の念とユーモアをこめて書いた尊称と思えるのである。
不動産ということでいえば、大学卒業後、小石川の法蔵院に下宿していた漱石は、和尚からこんなご託宣も聞かされていた。
「早く顎の下へ髯をはやして、地面を買って家を建てなさい」
漱石がその意を尋ねると、和尚は真面目な顔で、「あなたの顔を半分に割ると上の方が長く、下の方が短か過ぎて落ち着かない。だから、早く顎鬚をはやして上下の釣り合いをとるようにすれば、顔の座りよくなって動かなくなります」と答えた。漱石は聞き流しにして、顎髯は剃り続けた。
ところが、伊豆・修善寺で倒れたあと、図らずも漱石の顎の下の髯が延びることとなった。鏡子は漱石から法蔵院時代の話を聞いていたので、「いっそお生やしなすったらいいでしょう」と言った。漱石もちょっとその気になりかけたが、なんだか頭髪がむさ苦しくなってきて、ある日床屋を呼んで髪を切り、ついでに顎の下にも剃刀を当ててもらった。周囲の皆が「若くなった、若くなった」と頻りにはやし立てる中、鏡子だけは「おや、すっかり剃ってしまったんですか」と言って、名残り惜しそうな顔を見せたという。
結局、漱石は生涯、借家暮らしだった。
夏目家が持ち家を手に入れるのは漱石の没後。売れに売れた『漱石全集』の印税を原資に、それまで借りて住んでいた早稲田南町の土地と家を鏡子が購入し、漱石の書斎とそれに続く居間兼客間を残して別棟とし、新しく大きな屋敷を建てたのである。
天上の漱石は、これを見ながら、つるりとしたままの自分の顎の下を撫で廻しただろうか。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。作家・雑誌編集記者。文学、スポーツ、歴史など幅広いジャンルをフィールドに“人間”を描く。著書に『心を癒す漱石の手紙』『文士の逸品』『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』『ウイスキー粋人列伝』『著名人名づけ事典』『こぼれ落ちた一球』『石橋を叩いて豹変せよ』『あの人はどこで死んだか』など多数。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











