甲賀者とは?
甲賀者とは、近江の甲賀にいた地侍の総称のことです。いわゆる忍者であり、近隣の伊賀者とともに有名。甲賀の地域は山岳地帯であり、強力な大名が支配することがなく、小さな土豪が乱立しているような環境でした。また、野山を駆けているうちに体も強くなり、外部からの侵入を防ぎ、さらには地形を生かしたゲリラ戦法を習得していったと考えられます。
甲賀者の中で有力な家が53家あり、甲賀の忍術を継承する中心になっていったようです。これらの家の中には、伴・美濃部・隠岐・池田・和田・大原といった姓がありました。
甲賀者が有名になるのは、長享元年(1487)から始まった室町幕府による近江国守護・六角高頼に対する討伐戦です。この戦において、甲賀者は六角側につきました。甲賀者は幕府軍に対してゲリラ戦を展開し、幕府軍は苦戦。指揮官が亡くなるなどの混乱もあって、幕府軍は最終的に敗北し、その権威は大きく失墜することになるのです。
甲賀者は家康とは、強いつながりを持ちました。前述した上ノ郷城攻略のほかにも、天正10年(1582)の家康の堺から伊賀越えの脱出劇などに関与。この時は、家康の側近で伊賀出身の服部半蔵から家康の保護誘導を依頼され、無事に家康を三河へ帰国させることに成功しています。
江戸幕府成立後は家康の招待を受けたものの、多くの者は地元に残ることに。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康の部将・鳥居元忠指揮下で伏見城を防衛した者の子孫は、与力や同心として山岡景友に配属されて、江戸城の警備に携わりました。
まとめ
甲賀者の伴与七郎は上ノ郷城攻略に大きく貢献して、家康を助けました。与七郎個人の家康との関わりを示す史料は限定的ですが、甲賀者が家康を支えたという記録は多く残っています。忍者は基本的に「影の世界」で活動するため、歴史の表舞台には出にくいですが、天下人を支えた一員であったことは明確に歴史に残っているのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
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