この戦いの内容と結果
天正12年(1584)3月6日、信雄は秀吉と内通した3人の家老を成敗。これによって信雄と秀吉の対立が決定的となり、秀吉は各地の大名に信雄討伐の命令を下します。
一方の信雄は家康に支援を要請。家康はこれに応じて、8000人の兵を従え、尾張の清洲(きよす)城の信雄と合流しました。
緒戦は信雄支配下の犬山城(愛知県犬山市)で起こります。織田家の家臣であった池田恒興は秀吉とも信雄とも親しい仲にありましたが、最終的に秀吉につくことを決意。そして、3月13日に恒興の攻撃で犬山城があっさりと陥落してしまったのです。
これに驚いた家康は計画を変更し、小牧山(こまきやま)に兵を集めて、秀吉軍と対峙することになりました。
3月17日には、秀吉軍の森長可(もり・ながよし)が小牧山付近にまで兵を進めたところで、家康軍との戦闘が開始。長可は「鬼武蔵」との異名を持つ猛将でしたが、300人以上の戦死者を出して、犬山城への撤退を余儀なくされます。
この時、秀吉は紀伊の国人衆による一揆鎮圧のために大坂城にいましたが、長可敗走との知らせを聞いて3万の兵を率いて、急遽犬山城に向かうことに。そして、小牧山近くの楽田(がくでん)に本陣を敷いたのでした。これによって、両陣営がにらみ合う膠着状態が始まったのです。
膠着状態がしばらく続いた後、恒興が秀吉にある提案をします。家康は小牧山に軍を集結させているので、本国の三河は軍が手薄だろうから、そこを攻めて家康を混乱させるという作戦です。
秀吉は悩みますが、最終的にはこの作戦を了承。三河攻めの大将に甥の羽柴秀次を任命し、作戦を実行に移します。
ところが、三河に向かう途中の宿営地で、秀吉軍が三河に向かうのを、地元の住民が家康に報告。これに家康はいち早く反応し、急遽1万の追撃部隊を組織し、秀吉軍の後方を攻めます。
家康の追撃部隊は秀吉軍に追いつくと、追撃部隊の先鋒を務める榊原康政が、秀吉軍の最後尾の秀次を急襲。やがて、長久手のエリアで激戦が始まり、恒興も長可も戦死します。
大将を失った秀吉軍は大混乱に陥り敗走するものの、家康はそれ以上の深追いはせず小牧山に退却しました。一方で、秀吉本人は不安になって自ら進軍していたものの、家康が小牧山に戻ったことで自身も楽田に戻っています。
この後は、再び両軍のにらみ合いが始まり、ともに疲弊してしまいます。やがて、それぞれの拠点に撤退していきました。
「小牧・長久手の戦い」の後
戦いの後、軍事面で家康に敗れた秀吉は政治面で解決を図ろうとします。11月11日に信雄は家康に無断で、秀吉と和解。これによって、秀吉と戦う名分を失った家康も秀吉と講和を結びます。講和条件は家康の第2子である於義丸(おぎまる)を秀吉の養子とするものでした。
ただ、講和を結んだからといって、家康は秀吉に本当に臣従したわけではありません。関白になった秀吉のたびたびの大坂城招聘にも、応じようとしませんでした。
まとめ
小牧・長久手の戦いで、家康は秀吉軍を撃破し、軍事的な勝利を収めました。しかし、その後の秀吉による策略によって、政治面では勝利を収めるには至りませんでした。
家康の秀吉方に対する完全勝利は、後の関ヶ原の戦いや大坂の陣にまで持ち越されることになります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)