水野信元を密告し、その遺領を与えられる
長篠の戦いの後、同じ織田家の家臣だった水野信元(みずの・のぶもと)が、武田軍との内通(食糧を届けるなど)を疑われるようになります。「信元が内通している」と信長に告げたのは、信盛でした。
これを契機に、信長は信元への不信感をますます募らせていき、ついに家康に信元の粛清を命令しました。家康は、母・於大の方(おだいのかた)の再婚相手である久松俊勝(ひさまつ・としかつ)と自分の家臣である平岩親吉(ひらいわ・ちかよし、徳川十六神将の一人)と石川数正(いしかわ・かずまさ)を使って、信元を殺してしまいます。
信元の死後、刈谷(かりや)城などの水野氏の領地は佐久間氏が支配することになりました。
高野山に追放されて生涯を終える
晩年の信盛は、信長の意に反することが多くなります。天正4年(1576)からは石山本願寺攻めの総大将となりますが、以後5年間、戦果をあげることができませんでした。このことを信長から咎められ、天正8年(1580)に高野山に追放。この時、信長は19箇条にも及ぶ折檻状を自筆し、送ったと言われています。
信長の長年の重臣であり、勝家や秀吉などの部将に匹敵する功績を残してきたことを鑑みると、ある意味「転落」したと言えるのかもしれません。
高野山に追放された後は、出家。そして天正9年(1581)、十津川の温泉で病気療養中に病死しました。
ちなみに、信盛の子で、茶道に通じていた佐久間正勝も、ともに高野山に追放されています。しかし、父の死後に赦され、再度織田家に仕えることができました。のちに不干斎と号し、豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人として名を残しています。
まとめ
信盛は三十余年、信長に仕え戦功を上げ続けました。その活躍ぶりは柴田勝家や羽柴秀吉に並ぶものでしたが、最後は高野山に追放されてしまいます。その背景として、明智光秀の讒言によるものや、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったなどが挙げられますが、真偽のほどはわかっていません。
いずれにしましても、生え抜きの家臣であっても決して安泰ではない、信長の人材登用の厳しい側面が感じられます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)