この戦いの内容と結果
元亀元年(1570)6月28日、信長率いる連合軍は、長政の居城である小谷城(現在の滋賀県長浜市にあった城)へ攻め入ることに。『信長公記』によると、浅井・朝倉軍は約1万3000人、対する織田・徳川軍は約2万5000人の兵を率いていたとされています。
小谷城は、かなり傾斜のある山の頂に位置しており、難攻不落と名高い城でした。そのため、小谷城を攻略するのは難しいと考えた信長と家康は、小谷城のすぐ近くにあった横山城を攻略し、そこを前線として戦うことにしたのです。
織田・徳川軍が横山城を攻撃したという知らせを受け、長政は援軍として駆け付けた朝倉軍とともに小谷城を出立。両軍は、付近を流れる姉川を挟んで、対峙しました。そして、信長は浅井軍と、家康は朝倉軍と戦うことに。
数でこそ劣る浅井・朝倉軍。しかし、巧みな戦術で敵を翻弄し、織田軍は本陣にまで迫られてしまうという危機的状況に追い詰められます。
一方、朝倉軍と戦っていた家康は、形勢逆転できる機会を窺っていました。敵の陣形に乱れが生じていることに気付いた家康は、家臣である榊原康政に対し、朝倉軍を正面からではなく横から攻めるように命じます。家康の思惑通り、意表を突かれた朝倉軍は大混乱。そこに信長が加勢し、戦局は一気に織田・徳川軍有利に傾くことに。
元々兵力に差があるということもあり、浅井・朝倉軍は次々と敗走しました。結果として、信長と家康の勝利で幕を閉じることとなったのです。
姉川の戦い、その後
姉川の戦いは壮絶な戦いであったとされ、合戦が繰り広げられた付近には「血原(ちはら)」という地名が残っています。家康の機転が功を奏したと言えるこの戦い。徳川氏代々の功績が記されている『三河物語』によると、家康は一番隊として戦うと言って聞かなかったそうです。
家康と言えば、信長には頭が上がらないといった姿を描かれることが多いですね。しかし、この時の家康は、二番隊として戦ってほしいという信長からの要請も聞き入れようとしませんでした。その勢いに押された信長が、家康を一番隊に任命したという逸話が残されています。
本気で戦いに挑む姿勢を見せるためということのほかに、家臣団の実力に自信を持っていたからということも考えられるでしょう。
姉川の戦いに勝利した織田・徳川軍ですが、小谷城の守備は強固で、致命的な損害を与えるには至りませんでした。その後、兵力を立て直した浅井・朝倉軍は、本願寺や武田氏などの反織田勢力と手を組み、姉川の戦い同様、熾烈な戦いがしばらく続くこととなったのです。
まとめ
信長と長政との間に勃発した「姉川の戦い」。家康も、信長に与して戦いに加勢しました。劣勢をはねかえすきっかけを作った家康は、信長から深く感謝されたとも伝えられています。家康にとって、天下統一に近づくための重要な一戦であったと言えるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)