はじめに-「姉川合戦」とはどのような事件だったのか
「姉川合戦」は、元亀元年(1570)6月28日、近江国(現在の滋賀県)の姉川河原で行われた合戦です。
織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政(あざい・ながまさ)・朝倉景健(あさくら・かげたけ)の連合軍と激突し、戦国史の流れを大きく動かした一戦として知られています。
この戦いは、単に一度の野戦にとどまりません。金ヶ崎(かながさき)の戦いで信長を窮地に陥れた浅井長政への報復という意味を持つと同時に、信長にとっては浅井・朝倉両氏と本格的に戦火を交える最初の大きな戦いでもありました。
この記事では、「姉川合戦」について詳しく見ていきます。
「姉川合戦」はなぜ起こったのか
発端は、信長と長政との同盟関係が崩れたことにあります。
信長は永禄10年(1567)末から翌年初めごろ、北近江の小谷城主・浅井長政と同盟を結び、妹の市を長政に嫁がせて関係を固めました。ただし、その際、浅井氏が旧くから親交を結んでいた朝倉氏との関係を損なわないことが条件に含まれていたとされます。
ところが、信長は足利義昭(あしかが・よしあき)を奉じて上洛した後、越前の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に対する攻撃に踏み切ります。
元亀元年(1570)4月、信長は大軍を率いて若狭(現在の福井県南西部)・越前(現在の福井県北部)へ遠征し、天筒山(てづつやま)・金ヶ崎の両城を陥落させて一乗谷に迫ろうとしました。このことに際し浅井長政・久政父子は、朝倉氏との旧誼を重んじ、また信長の越前侵攻に危うさを感じて、突如として信長に背きます。
この離反によって、信長は金ヶ崎で退路を断たれ、朽木越えで京都へ戻るという危険な撤退を強いられました。
『毛利家文書』によると、信長にとって長政の挙兵は「少しも隔てのない間柄であったから思いがけないこと」と感じられるほど衝撃的な出来事だったようです。
その後、浅井氏は朝倉氏に援軍を求め、織田方に備えて城塞を築きました。これに対し、信長は徳川家康の援軍を得て再び近江へ進出し、浅井方の小谷城を圧迫します。
こうして、姉川合戦が起こることになりました。

関わった人物
姉川合戦に関わった主な人物についてご紹介します。
【織田・徳川方】
織田信長

尾張(現在の愛知県西半部)を本拠に勢力を広げ、足利義昭を奉じて上洛した戦国大名。
浅井長政とは同盟関係にありましたが、朝倉攻めをきっかけに離反されます。金ヶ崎で危機を脱したのち、ただちに近江へ出兵。姉川で浅井・朝倉連合軍と正面から対決しました。
徳川家康

三河(現在の愛知県東部)・遠江(現在の静岡県西部)を支配した大名で、信長の同盟者です。
姉川合戦では援軍として参戦し、一般には朝倉軍と対陣したとされています。
柴田勝家

織田家の宿老の一人です。信長方主力の一員として合戦に加わりました。
丹羽長秀(にわ・ながひで)

信長の重臣。この戦いでは、横山城の押さえを命じられています。主戦場だけでなく、戦後を見据えた配置からも、その重用ぶりがうかがえます。
木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)

戦後、降伏した横山城に置かれています。
【浅井・朝倉方】
浅井長政

北近江・小谷城の城主です。信長の妹婿でありながら、朝倉氏との旧誼を重んじて信長に背きました。姉川合戦では浅井軍を率いて出陣し、信長と直接対決することになります。
浅井久政(あざい・ひさまさ)

長政の父。浅井家の方針転換には久政の意向も大きかったと考えられます。
朝倉義景(あさくら・よしかげ)

越前の戦国大名。信長の上洛要請に応じず、信長の越前侵攻を招きました。姉川合戦そのものでは、自らではなく属将の朝倉景健が前面に立ちました。
朝倉景健(あさくら・かげたけ)

朝倉方の武将。浅井長政とともに連合軍を率いた人物です。姉川では朝倉軍を指揮し、徳川方と激突しました。
遠藤直経(えんどう・なおつね)

浅井長政の家臣。「信長を討とうとして敵陣深くに入り込んだ」という逸話があります。
この戦いの内容と結果
元亀元年(1570)6月、信長は浅井氏の本拠・小谷城を圧迫するため、前線の要である横山城を攻撃しました。
横山城は、姉川を挟んで小谷城の東南方に位置し、ここが落ちれば浅井氏は南方諸城との連絡を断たれるおそれがありました。そのため、長政は朝倉方の援軍と合流して救援に向かいます。

攻め入るのが極めて難しい場所に位置していたということが分かる。
6月27日夜から28日未明にかけて、浅井・朝倉軍は草野川を越えて姉川北岸に進出し、浅井軍は野村、朝倉軍は三田村に布陣しました。
これに対し、織田・徳川連合軍も出陣し、28日早朝、姉川河原で両軍が激突します。
兵数には諸説がありますが、おおむね織田(約2万3千)・徳川(約6千)方が優勢で、浅井(約8千)・朝倉(約1万あるいは約1万5千)方がそれに対抗したと理解されています。
戦いの序盤は浅井・朝倉軍が優勢だったとされ、織田方は苦しい局面に追い込まれました。しかし、その後戦局は逆転し、最終的には織田・徳川方の勝利に終わります。
もっとも、どの部隊がどの局面で決定打を与えたのかについては、後世の徳川側の史料に家康の活躍を強調する傾向も見られるため、細部の評価には慎重さが必要です。
それでも、この合戦が激戦であったことは確かでしょう。

戦いに勝ったことにちなみ、「勝山」と呼ばれるようになった。
浅井・朝倉方では遠藤直経ら良将が戦死し、両軍とも多数の死傷者を出したと伝えられています。浅井・朝倉軍は敗走し、長政は小谷城へ、朝倉方は越前へと退きました。
姉川合戦、その後
姉川の勝利によって、信長は浅井・朝倉両氏に大きな打撃を与えました。
戦後、横山城には木下秀吉が置かれ、信長はさらに佐和山方面などの要地にも武将を配置して、浅井氏を圧迫していきます。
ただし、この勝利によってただちに戦争が終わったわけではありませんでした。

姉川合戦は壮絶な戦いであったとされ、合戦が繰り広げられた付近には「血原(ちはら)」という地名が残っている。
小谷城はなお健在で、浅井・朝倉勢力もただちに崩壊したわけではなかったのです。さらにこの頃、三好三人衆はなお京都での復権を狙い、将軍・足利義昭もやがて諸大名と連絡して信長包囲を図り、本願寺顕如も決戦に踏み切ろうとしていました。
つまり、姉川合戦は、信長が安寧を手にした戦いというより、信長包囲網の時代が本格化していく中で得た重要な勝利だったのです。
それでもこの一勝が、浅井・朝倉両氏の戦力を削り、その後の滅亡への遠因となったことは間違いありません。
また、家康にとっても、この戦いは信長との軍事同盟を実戦で示し、自らの軍勢の力量を天下に印象づける機会となりました。信長が戦後、家康に前将軍・足利義輝の佩刀(はいとう)を贈って戦功を賞したという話も、その意味の大きさを物語っています。
まとめ
姉川合戦の勝利は、信長にとって浅井・朝倉両氏に大きな打撃を与えるものでした。とはいえ、これで情勢が一気に安定したわけではありません。
姉川合戦は、むしろ信長包囲網というさらに大きな試練の入口に位置する戦いでもありました。だからこそ、この勝利の意味は重いのです。戦国の覇権をめぐる争いが、ここからさらに激しさを増していくことになります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











