文/池上信次
前回(https://serai.jp/hobby/1111985)、ジャズ・ミュージシャンの自伝を紹介しましたが、その中で気がついたことがあります。それは、1960年代後半のマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバー5人のうち4人の名前がそこにあったこと。そのマイルス(トランペット)、ウェイン・ショーター(テナー・サックス)、ハービー・ハンコック(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムス(ドラムス)のうちトニーを除く4人が自伝(または実質的自伝の評伝)を出版しています(なお、トニーは1992年に51歳で急逝しました)。書名は下記の通りです。
マイルス・デイヴィス
『マイルス・デイヴィス自伝(Miles: The Autobiography)(原著発行年/以下同:1989年)
マイルス・デイヴィス、クインシー・トゥループ著/中山康樹訳/シンコーミュージック・エンタテイメント
ウェイン・ショーター
『フットプリンツ-評伝ウェイン・ショーター(footprints The Life and Work of Wayne Shorter)』(2006年)
ミシェル・マーサー著/新井崇嗣訳/潮出版社
ハービー・ハンコック
『ハービー・ハンコック自伝-新しいジャズの可能性を追う旅(Possibilities)』(2015年)
ハービー・ハンコック、リサ・ディッキー著/川島文丸訳/DU BOOKS
ロン・カーター
『「最高の音」を探して-ロン・カーターのジャズと人生(Finding The Right Notes)』(2017年)
ダン・ウーレット著/丸山京子訳/シンコーミュージック・エンタテイメント
このクインテットは、日本では「黄金のクインテット」と呼ばれる、マイルスの歴代最高のバンドのひとつです。メンバーはいずれもこのグループで名を上げました。ですから、メンバー3人の自伝はどれもマイルスとの活動にはたくさんのページを割いています。そこで気になるのは、メンバー間には事実認識や視点の相違がどれくらいあるか、ということ。
マイルス・デイヴィス『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』(コロンビア)
演奏:マイルス・デイヴィス(トランペット)、ウェイン・ショーター(テナー・サックス)、ハービー・ハンコック(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムス(ドラムス)
録音:1965年12月22日、23日
「プラグド・ニッケル」でのライヴ・アルバムが最初に発表されたのは1976年。日本だけで2枚のLPレコードで発売されました。『プラグド・ニッケル(Vol.1+Vol.2)』は、そのCD版。アメリカでの発売は1982年の2枚組LP『ライヴ・アット・ザ・プラグド・ニッケル』が最初で、その後LP『クッキン・アット・ザ・プラグド・ニッケル』などでさらに多くの曲が発表されました。未編集の全録音曲は、95年リリースのCD7枚組『コンプリート・ライヴ・アット・ザ・プラグド・ニッケル1965』で聴くことができます。
共通するトピックで比較してみました。どの自伝でも取り上げているのが、1965年12月のシカゴのジャズクラブ「プラグド・ニッケル」での演奏とそのライヴ・アルバムについて。現在ではマイルス・クインテット屈指の名演と評価されていますが、クインテットがそれまでのスタイルから突如変化し、もっともフリー・ジャズに近づいた異色の演奏でもあります。それぞれの自伝で紹介されている、この「事件」の要約を紹介します。
演奏前のいきさつと演奏の様子
ウェイン・ショーター評伝:トニーが「反音楽(アンチ・ミュージック)をやったらどうかな」と、マイルスを除くメンバーに提案。最初は誰も乗り気ではなかったが、バンドの進歩のためには選択の余地はなく、これは成長か死かの分かれ目だった。レコーディングは予告されていないものだった。マイルスは演奏に素早く反応し、不可解な行動をするバンドのメンバーに対して、お前ら、一体何をやってやがる? と詰め寄っているかのよう。マイルスはこのゲームを気に入った。
ハービー・ハンコック自伝:シカゴへの機内でトニーが「アンチ・ミュージックをやる」と提案しメンバーに合意を求めた。ハービーはクラブで予期せぬレコーディングの機材を見て「まずいな」とトニーに言ったが、「もちろん、やるぞ」とトニーは返答した。ファースト・セットの前にマイルス抜きの全員で打ち合わせをした。予期した通り、マイルスは何も言わなかった。マイルスはそれを受け止めていつものように演奏した。マイルスのプレイは最高だった。
ロン・カーター評伝:[ハービーのインタヴューを掲載]シカゴへの移動の最中、トニーがハービーに「最近の俺たちのプレイは予定調和になりすぎていないか?」と話し、ハービーは同意。そこでふたりは新しい試みとして、反音楽(アンチ・ミュージック)を計画。クラブ到着前にロンとウェインにそれを話し、彼らも同意した。
演奏後とアルバム発売時の感想
ウェイン・ショーター評伝:このときの演奏で、古い曲を新しく生まれ変わらせる方法を見つけた。しかし、このライヴ・レコーディングはひどい出来に違いないと考えていた。そのため、レコード会社がリリースを見送ったときはほっとした。このレコードが日本で発売されると、それを聴いて初めてこの音楽がひとつの表現として意味を有していたことを知り、おおいに驚いた。当時は実験的だったプレイは、その頃すでにスモール・コンボ・ジャズの共通のスタイルになっていた。1982年にアメリカでも発売されると、当時22歳のウィントン・マルサリスはそのレコードを持って家を訪ねてきた。
ハービー・ハンコック自伝:録音第一夜の最終セットの後、エンジニアからプレイバックを聴くかと訊ねられたが、ひどいサウンドだろうと思ったので「聴きたくない」と答えた。17年後(=82年)にレコードが発売されたとき、友人から電話でアルバムを聴いたかと訊ねられたが、「聴いていないし、聴く気もない」と返答した。しかし発売から2週間後に勇気を奮い起こしてそれを聴くと、記憶とずいぶん違ったサウンドになっていることにショックを受けた。私はそのレコードを気に入った。
ロン・カーター評伝:[ハービーのインタヴュー]初日のファースト・セットのあと、収録したテープを聴きたいと頼んだがそれは叶わず、結局発売まで聴くことはなかった。[ロンの回想]そのアルバムはようやくリリースされたが、聴くことはなかった。届いたLPはビニールに包まれたまま、レコード棚にしまい込まれた。その数年後ジャック・ディジョネットと車でスタジオに向かっていた時、カーラジオからその中の1曲が流れてきた。ジャックは「アルバムを聴いたか? 聴かなきゃだめだ。ここでの音楽の進化はすごい」と話し、「冗談だろ、ジャック」と返答。帰宅して早速聴いたが、自分の耳が信じられなかった。「反音楽」は、トニーとハービーが前衛ジャズのシーンの中で見聞きしたものを若者らしい熱意で実践しようとした結果だ。私はその数年前にドン・エリスなんかとやっていた。前衛ジャズの連中ともずいぶんとやった。ハービーとトニーはその経験がなかったんだ。初めてその考え方を取り入れて、マイルスの音楽を使って実験したのがプラグド・ニッケルだった。
プラグド・ニッケルのライヴ・アルバムは、メンバーがリーダーのマイルスに初めて「反逆」した演奏を「たまたま」捉えたものだったこと、演奏した当人たちはずっと後にアルバムを聴いて初めてその演奏がいかに素晴らしかったかを実感した、ということが共通しています。「アンチ・ミュージック」という単語がいずれにも出てきていますので、ハンコックの自伝、ロンの評伝はおそらく先に出たショーターの評伝も参照していると思われます。ハンコックの発言内容に一部ブレがありますが、トニーが「事件」の主導者であることは間違いないようです。興味深いのが、ロンの余裕です。トニーは当時20歳でロンより8歳も若いので、キャリアの違いも当然というところでしょう(メンバーの年齢については第189回(https://serai.jp/hobby/1106132)も参照)。
さて、では反乱されたリーダー、マイルスはこのときのことをどう考えていたのでしょう。1965年の春にマイルスは股関節の手術をするなどし、バンド活動は中断。12月のプラグド・ニッケルは久しぶりにレギュラー・メンバーが全員揃ったライヴでした。『マイルス・デイヴィス自伝』から引用します。
(前略)全員が良いミュージシャンで、一緒にやるのが好きな限り、ある程度離れてから、またやるのは良いことなんだ。『プラグド・ニッケル』じゃいつもやっているような曲を演奏したが、新鮮な気分になれた。1965年に人々が聴いていた音楽は、前よりもフリーになっていた。誰もが前衛的な演奏をしているように見えたし、そうした演奏が本当に根を下ろしはじめていたんだ
これだけです。じつにあっさりとした反応です。さすがにリーダーとしては、若いサイドメンの反乱に翻弄されたとは言いづらいところなのかもしれません。いや、じつはこれはみんなマイルスの掌の上の出来事だったりして。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中。(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。