文/池上信次

前回(https://serai.jp/hobby/1108354)紹介した「謎の男爵夫人」ニカ・ド・コーニグズウォーターの人物像が、2012年に出版された評伝(日本語版『パノニカ  ジャズ男爵夫人の謎を追う』ハナ・ロスチャイルド著、小田中裕次訳、月曜社刊)で詳細に明らかになる前、その片鱗がうかがわれる1冊の本が出版されていました。それはパノニカ自身が書き、2006年にフランスで出版された『Les Musiciens de jazz et leturs trois vœux』(アメリカ版は『Three Wishes〜An Intimate Look at Jazz Giants』2008年、日本語版は『ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ』鈴木孝弥訳、ブルース・インターアクションズ刊、2010年)。そこに添えられた、パノニカの孫であるナディーヌ・クゥニグズヴァルテールによる前書きに、パノニカのバイオグラフィーが記されていました。

本編には自身のことは記さず、内容はタイトルのとおりジャズ・ミュージシャンに「3つの願い」を聞いてまとめたもの。取材(なのか会話なのか)は1961年から66年まで行なわれました。まず驚くのはそこに掲載されているミュージシャンの数です。なんと約300人。60年代にニューヨークで活動していたジャズ・ミュージシャン全部、とまではいかないでしょうが、有名どころはもれなく入っているという感じです。意外なところでは、秋吉敏子、ジョー・ザヴィヌル、テオ・マセロも。またティナ・ブルックス、フレディ・レッド、ソニー・レッド、ハービー・ニコルズといった「通好み」の名前もあります。60年代当時に出版を考えていたということなので、意識的に広く網羅することも考えていたのかもしれませんが、それでもこの自然体の回答を見ると、多くのジャズ・ミュージシャンがパノニカと親しい関係にあったことがうかがえます。

この共通質問事項はシンプルゆえ、ミュージシャンの性格をじつによく表していると思います。収載された有名ミュージシャンの回答を紹介しましょう。3つ全部書くとネタバレになってしまうので、一部だけですけど(以下日本語版より引用)。前回紹介したように、パノニカともっとも密接な関係にあったのがセロニアス・モンクです。パノニカが最初に質問したのはモンクでした。モンクの答えのひとつは、「素晴らしい(ルビ:クレイジーな)友を持つこと、きみのようなね!」とパノニカの支援に対し素直に謝意を示しています。

「医者に診てもらったり、病院に行ったりしなくていい状態」「レコードを作ること」と答えたのはバド・パウエル。パウエルは60年代初頭にパリに渡り、66年にアメリカに帰国して、その年に亡くなっていますので、深刻な体調だったときの正直な気持ちなのでしょう。マイルス・デイヴィスもいます。その答えはひとつだけ。「白人になることだ!」って、これはジョークですよね。ジョン・コルトレーンは「オレの音楽に無尽蔵の新鮮さを持つことだね。今、マンネリに陥ってるんだ」と言ってます。この発言は正確な時期を知りたいところ。コルトレーンのフリー・ジャズへの傾倒はマンネリ打破だったのでしょうか。なお、彼のもうひとつの答えは「今の3倍の性的パワーを持つこと」。これはどういうことなのか……? そしてフリー・ジャズの先駆者オーネット・コールマンは「愛」「幸福」、ウェス・モンゴメリーは「幸せ」「平和」、バリー・ハリスは「世界の平和」など、真面目な回答もたくさんあります。ウェイン・ショーターは「地球上の平和。他のいたるところでも。他の惑星でもだ!」と、現在でも言うに違いない言葉を残しています。

興味深いのは、「カネ」(あるいはそれに類するもの)と答えている人が、なんと30人以上、全体の1割もいること。どんな状況でこれらのインタヴューが行なわれたのかはわかりませんが、ジョークだったとしてもこれが当時のジャズ・ミュージシャンが直面する現実だったのでしょう。

そして、この本の大きな特徴は写真集でもあること。撮影者はパノニカ。彼女が住んでいたホテルの部屋、自宅「キャットハウス」やジャズ・クラブなどで、彼女は当時珍しかったポラロイドカメラも使って、パノニカはミュージシャンたちの自然な姿をとらえました。猫を抱いて眠るモンク、タイプライターを打つアート・ブレイキー、帽子をかぶっていないサン・ラ、ピアノを弾くキャノンボール・アダレイなど、ポーズをとっていないくつろいだ日常の、いわば無防備の姿がたくさん掲載されています。また、レコーディング・スタジオの写真もありますので、パノニカはさまざまなジャズの現場にも出入りしていたことがわかります。

これらから感じられることは、パノニカはミュージシャンをまったく差別していなかったということ。この時代、黒人ミュージシャンが人種差別に苦しんだ話は枚挙にいとまがありませんが、だからこそミュージシャンたちは彼女に心を開いたのでしょう。質問の答え、そして写真が、それを雄弁に語っています。また、これらの発言はまさに時代の反映であり、当時の社会やジャズ・ミュージシャンが置かれていた状況が見えてくる貴重なドキュメンタリーともなっています。ジャズ・ファンならぜひ一読をお勧めします。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中。(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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