この戦いの内容と結果
永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千の大軍を動員し、尾張に兵を進めました。当時19歳の松平元康は、先鋒として出発し、駿府を発ちます。元康が率いる軍には酒井忠次(ただつぐ)、石川家成(いえなり)のほか、元服したばかりの本多忠勝(ただかつ)も初陣で参加しました。
また、出陣に先立ち、義元は三河守(みかわのかみ)に任じられています。今までは実質的に三河を支配していましたが、これで名目上でも三河の支配者となったのでした。義元は、元康を将来の武将候補として大いに期待していたとみられています。
戦線では、今川方の前線拠点である大高城(おおたかじょう)が織田軍に囲まれ、兵糧が欠乏した状況でした。すると5月18日、元康が織田方の包囲を突破し、兵糧の搬入に成功。19日未明からは、織田方の丸根(まるね)砦と鷲津(わしづ)砦を攻め落としました。勝利した元康は、鵜殿長照(うどのながてる)に代わって大高城の守備を務めました。
一方、信長はわずかの兵を率いて自らの拠点を出発。桶狭間山・田楽狭間(でんがくはざま)に本陣を置いていた義元を、急襲したのでした。不意をつかれた今川軍は、総崩れとなります。300の兵が義元を囲うように敗走しましたが、織田軍の追撃でその数は50ほどに減り、義元は信長の近臣・毛利新介(しんすけ)に討ち取られました。この義元の死により今川軍は敗走。「桶狭間の戦い」は織田氏の勝利で幕を閉じたのでした。
桶狭間の戦い、その後
今川方として戦っていた元康は、義元討死の報を大高城で聞きました。しかし、偽の情報の可能性があるとして、すぐには動かなかったとされます。やがて織田方についていた伯父・水野信元(のぶもと=三河刈谷から尾張緒川にかけての領主)からの使い・浅井道忠(みちただ)がやってきました。そして、元康は道忠の道案内で大高城から撤退することになったのでした。
19日の夜半、闇に紛れて大高城を出た元康とその側近・従兵30名は、途中で織田軍の兵にも遭遇。何とか危機をしのぎ、翌20日には岡崎城下の大樹寺(だいじゅじ)に到着しますが、岡崎城には今川の兵がいたため、入ることができなかったとされます。一説によれば、岡崎城を目前に諦めた元康は、先祖の墓前で腹を切ろうとしますが、住職に諭され、これを思いとどまったという逸話も。
そして3日後、岡崎城にいた今川軍が撤退し、代わりに元康が城内に入りました。12年ぶりの帰還を果たし、元康は今川氏から独立したのでした。今川氏への服属を断った元康は、その後、信長と同盟を結び、一大名として所領を拡大していくこととなります。
まとめ
今川氏と織田氏の戦いである「桶狭間の戦い」。元康は、主君である今川義元の尾張進行に同行し、その一員として戦いに加わりました。義元の死で終結したこの戦いは、今川氏からの独立をもたらしたという意味で、松平元康にとっても大きな転換点であったといえるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)