はじめに-三浦胤義とはどんな人物だったのか

三浦胤義(たねよし)は、「十三人の合議制」の一人である三浦義澄(よしずみ)の子で、鎌倉時代前期を生きた武将です。父同様に鎌倉幕府の御家人となり、御家人らの権力闘争である「畠山重忠の乱」や「和田合戦」で功をたてました。しかし、後には兄と離反し、倒幕を企てるに至ります。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義村の弟で、策謀を巡らす兄・義村を支える実直な武者(演:岸田タツヤ)として描かれます。

目次
はじめに-三浦胤義とはどんな人物だったのか
三浦胤義が生きた時代
三浦胤義の足跡と主な出来事
まとめ

三浦胤義が生きた時代

三浦胤義が生きたのは、頼朝亡き後、幕府内で北条氏を筆頭とした有力御家人らの権力闘争が繰り広げられた時代です。加えて、幕府と朝廷の円滑な関係が崩れていく時期でもあります。執権・北条氏と後鳥羽上皇とが対立していくなか、北条氏に仕える三浦氏であるはずの胤義は、倒幕へと傾倒していったのでした。

三浦胤義の足跡と主な出来事

三浦胤義は、生年不明で、承久3年(1221)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

三浦義澄の子として生まれる

三浦胤義は、頼朝の挙兵時から源氏に仕えた三浦義澄を父に持ちます。母は伊東祐親(すけちか)の娘です。また、兄には三浦氏の最盛期を築いた三浦義村がいます。生年は定かではありませんが、幼少期は「平九郎判官」と称しました。『諸家系図纂』などには源頼朝の猶子(疑似的な親子関係を結んだ兄弟・親類や他人の子)と記されています。

父である三浦義澄は、源平合戦における主要な合戦に従軍した源氏の御家人です。「壇ノ浦の戦い」では、源義経軍から平氏追討の先鋒を命じられ、その討滅に従って功を立てたともいわれています。頼朝から厚い信頼を寄せられ、彼の死後には「十三人の合議制」の一人として幕政における重臣の地位を占めたのでした。

その跡を継いだ胤義の兄・三浦義村は、「平氏追討」や「奥州征伐」に従うなど、父とともに若くして各地に転戦した武将です。従兄弟の関係にあたる執権・北条義時に忠誠を尽くし、御家人らの権力闘争においても功を挙げました。北条家の信任を得た義村は「評定衆」に任じられるなど、一族の最盛期を築いたのでした。

このような父・兄を持つ胤義は、鎌倉幕府の御家人として兄・義村とともに北条執権家に従います。

畠山重忠の乱に出陣

胤義が歴史の表舞台に登場するのは、元久2年(1205)6月に起こった「畠山重忠の乱」でした。胤義は兄・義村とともに、謀反の疑いをかけられた畠山重忠の子・重保を討ちます。その後、幕府の大軍によって畠山重忠も討ち取られたのでした。また、三浦兄弟は同年閏7月の「牧氏の変」においても功をたてたとされます。

和田合戦にて同族に背く

建保元年(1213)5月に、北条氏の挑発に乗る形で和田義盛が挙兵する「和田合戦」が勃発。三浦氏は和田氏と同族であるうえ、首謀者である和田義盛と義村・胤義兄弟は従兄弟の関係にありました。同心の約束をして起請文まで書いていたとされます。しかし、兄弟は和田氏との約に背いて、義盛の挙兵を執権・北条義時に知らせました。

戦いは、3代将軍・実朝を擁した北条氏が勝利。胤義はこの追討の功で上総国伊北(いほう)郡(=現在の千葉県夷隅郡夷隅町・勝浦市)を賞賜されました。一方、和田氏は滅亡。これは、義村ら兄弟が自ら同族である和田一族を葬ったことを意味していました。

倒幕計画に加わる。次ページに続きます

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