嫡男・信康が織田信長の娘・徳姫と結婚
永禄10年(1567)、家康と築山殿の嫡男・信康が織田信長の娘・徳姫と結婚をします。このことによって、徳川家と織田家は固い絆で結ばれました。
続いて、元亀4年(1573)、家康は三河・奥平氏を味方に引き入れるために、娘の亀姫を奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に嫁がせます。この結婚には、信長の助言もあったようです。
徳姫が父・信長に「十二か条の訴状」を出し、築山殿と信康を告発…
信康と徳姫の間には、2人の子供が生まれましたが、いずれも女児でした。そのため、築山殿は、徳川家の家臣(武田家の家臣という説もあり)・浅原氏の娘を信康の側室に迎え入れます。
このことが徳姫の反感を買い、天正7年(1579)、徳姫は父・信長に「十二か条の訴状」を出し、築山殿と信康が甲斐の武田勝頼(かつより)と内通していると嫌疑をかけ告発します。このことを受けて、信長は家康を厳しく咎めたと一説には言われていました。
ちなみにこの説については諸説あり、信長は「十二か条の訴状」ではなく、信長自身が三河で集めた情報を論拠にしていたという説もあります。信康の家臣が武田内通をしていたことが露見し、岡崎の大将である信康が責任を取るべきだ、と信長が家康を責めたという説です。
家康の命で暗殺される…
天正7年(1579)8月29日、岡崎城から浜松城に呼び出しを受けて向かう道中、家康の命を受けた家臣・野中重政 (しげまさ) の手によって、築山殿は佐鳴湖(さなるこ)の岸で暗殺されました。数え年で38歳の若さでした。築山殿の死から間もなく、信康も切腹させられました。
築山殿の法名は、西光院(のち清池院に改む)、遠江清滝 (せいりゅう) 寺(静岡県浜松市/現在の西来院)に葬られました。西来院には、今でも築山殿を祀る月窟廟(げっくつびょう)があります。
まとめ
織田信長の命により、築山殿と信康は処刑されたと言われてきましたが、今では武田派だった2人を粛清することで、家中の結束を図ったのではないかという見方もあるようです。
いずれにしても、築山殿の最期は悲劇的なものでした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/末原美裕(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)