鎌倉殿の後継者として遜色のない立場にあった貞暁

その貞暁になぜ政子が会いに来たのか?

劇中では、頼家の子息公暁、阿野全成の子息時元。この両名が実朝の後継者として候補にあがる中、頼朝実子の男子である貞暁にもその資格があるといったところだろうし、頼朝を父とする男子の成長ぶりを確認したかったのかもしれない。この段階で30代前半の貞暁は鎌倉殿の後継者として遜色のない立場にあった。

かつて、鎌倉で政子に徹底的に嫌われた貞暁は、政子の訪問をどのように受け止めたのであろうか。鎌倉を去る前夜に、人目を偲んで短刀を授けに来た父・頼朝の姿が脳裏に浮かんだであろうか。そして貞暁のもとを訪ねた政子の胸中にはどのような思いが去来していたのであろうか。

高野山に残る伝承では、政子は貞暁に将軍職を継ぐ気がないか尋ねたという。貞暁の答えは、「否」。真偽のほどは定かではないものの、政子とのやり取りの中で、短刀で自らの眼球を潰したという話も伝わる。

貞暁にしてみれば、今さら、権力闘争の末に頼家や阿野全成や多くの御家人が誅殺される魑魅魍魎の鎌倉などに戻りたくはなかっただろう。

政子が、貞暁と対面した翌年、実朝が甥の公暁に暗殺される。そして、承久の乱を経た貞応2年(1223)、政子の援助もあったのか、貞暁は、院主を務める一心院に寂静院という一院を建立する。『帝王編年記』によると阿弥陀三尊を本尊とし、その胎内には父頼朝の鬢髪を納めたのだという。あるいは、貞暁との対面の際に政子が持参したものであろうか。

実朝が亡くなった後は、初代鎌倉殿頼朝を父とする唯一の男子となった貞暁。「鎌倉法印」あるいは「高野法印」と称されて、いっそう崇敬を集めたという。その貞暁が亡くなったのは、寛喜3年(1231)。すでに北条義時、北条政子は鬼籍に入り、恩讐の地鎌倉は、第三代執権北条泰時の時代になっていた。

なお、政子は丹生都比売神社に社殿や金銅琵琶(重要文化財)などを寄進している。参詣の折には、政子の切実な祈りに思いを馳せてほしい。

丹生都比売神社の輪橋は、政子より400年ほど後に淀君が寄進したと伝えられる。

構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり

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