いよいよ火を噴いた「承久の乱」。しかしこの乱がもたらした結果は、日本の歴史を考えると「ありえない」ことばかりでした。
はたして、この承久の乱に至る両陣営の状況や思惑は、どのようなものだったのでしょうか。また、乱の結果、どのような日本になっていったのでしょうか。
教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、坂井孝一先生の講義「源氏将軍断絶と承久の乱(全12話)」を配信しています。このうちの「承久の乱」に関する3話をピックアップしてご紹介しています。
なお、前編では「後鳥羽上皇との対立の火種」、後編では「和をつくる人・北条泰時の徳政と御成敗式目」を深掘りしていきます。
以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、坂井孝一先生の講義をお届けします。
講師:坂井孝一 (創価大学文学部教授/博士【文学】)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
鎌倉殿に従う武士、朝廷に従う武士、両属の武士
――(後鳥羽上皇と北条義時の)対立の種がいよいよ火を噴くのが承久の乱ということになってきます。承久の乱の動きを考えるためには、鎌倉殿に従う武士たちと、朝廷に従う武士の存在を考えなければいけないと思うのですが、このあたりはどういう仕組みになっていたのでしょうか。
坂井 武士たちは、関東を中心に御家人(鎌倉時代には、「鎌倉殿(=将軍)直属の家臣」の意)になっていますが、西国のほうにも武士はいて、御家人でない武士もかなりいました。さらに東国出身の御家人であっても、京都に行って院に仕える、両属関係にあるような武士も相当いました。
それから西国守護。守護というのは有力御家人になりますが、西国守護の任地は西国なので後鳥羽の指揮系統に入る武士たちも、相当数いました。逆に言えば、そのぐらい西のほうでは、治天の君である後鳥羽上皇が存在感を示していたということです。
したがって、幕府の武力や軍事力といっても、やはり東日本が中心です。そこがまず大前提として重要になってきます。
そこで、簡単に経緯を説明しますと、まず、北条義時を排除しなければいけない。そして自分の意向を実現するような西国の御家人を、奉行として鎌倉に送り込む。これによって幕府の軍事力を乗っ取ろうとしたのが後鳥羽上皇の真意だと、私は考えています。
軍事組織を一から作るというのは大変です。さらに、源頼朝の挙兵からはすでに40年以上経っているので、そのなかで積み上げられてきた組織である幕府をつぶし、倒すことによって、多くの東国御家人たちは野に放たれてしまうことになります。彼らは武力を持っているわけで、治安が乱れることは、火を見るよりも明らかです。
後鳥羽上皇に幕府を倒すつもりはなかった?
坂井 それをするほど後鳥羽上皇は愚かではないと思います。むしろ、親王将軍を送って幕府を自分の支配下に置こうとしたのと同じように、「トップにいる北条義時を別人にすげ替えることによって、軍事組織はそのまま利用しよう。そのほうが、デメリットが少なく、メリットが大きい」と考えたのではないかと、私は思っています。
――これは、まさに親王を将軍として下そうという発想の延長線上といえば延長線上です。いかに自分の影響下に幕府を置くかという戦略の一環ということになるわけですね。
坂井 はい。もちろん、自分の影響下に置くときに、源実朝がいて親王将軍がいる場合では、鎌倉殿と御家人たちとの主従関係やそれまでの幕府の制度が本質的に大きく変わることはありません。しかし、もう実朝もいない、もちろん親王将軍も行っていない。2歳の三寅がいるだけです。
北条氏を排除して、そこに自分の意向を汲んでいる御家人を入れたとしても、鎌倉殿と御家人たちの主従関係が今までのかたちとは違ってきてしまいます。ですから、実朝期までの確固たる幕府のような軍事組織ではなくなってしまうかもしれない。軍事力はあるものの、組織としての一体性は崩れていってしまうかもしれない。
そういうことを考えて、「それまでの幕府ではなくなる」という意味で、「幕府を倒す」という言い方ができないわけではありません。しかし、それは急に起こることではない。幕府をつぶすのではなく、徐々にその体制が変わっていったら。(たとえば)直接、後鳥羽上皇が鎌倉に命じるようなことが起こってきたときに、どうなるのか。現実にはそうならなかったので、どのようなかたちが生まれるかについては想像でしかありません。よく分からないことばかりです。
少なくともそれまでの源頼朝や頼家、実朝のときの幕府でないものに変わってしまうことは明らかなのですが、解体させてしまうことはないと、私は確信しています。
――あくまで、北条義時の追討、北条氏の追討であるということなのですね。
坂井 そうですね。
ありえない3上皇配流と皇室への介入
――このあたりは本当に有名なお話になってきますが、北条政子が演説をし、御家人たちが一致団結して京都へ上っていき、朝廷側を打ち破るということになってくるわけです。
ここでまた、幕府と朝廷の関係が大きく変わってくると思うのですが、この事件を境に、それまでの関係とその後ではどう変わっていくのでしょうか。
坂井 京方と鎌倉方という言い方をしますが、武力で京方(後鳥羽方)を倒し、さらに後鳥羽上皇及び順徳上皇に加え、自らの望みにより土御門上皇も流されることになります。3上皇を配流するという考えられない事態が起きます。
――日本の歴史で、家臣というか皇室の人でない者が皇室の人を流すというのは、ありえない話ですよね。
坂井 そうですね。保元の乱のときには確かに崇徳上皇が流されますが、流したのは後白河天皇でした。実質的には信西らの一派がやったことでしょうが、王家同士の対立の中で起こったことでした。今度は、たかだか右京権大夫兼陸奥守という北条義時が、明らかに「上皇たちを島流しにしろ」と命じているわけで、これはもうありえない話ですね。
さらにもっとありえないと考えられるのは、上皇がいなくなった後、(践祚したばかりの)仲恭天皇も廃位されてしまうことです。その後の天皇と上皇を誰にするかというのを決めたのが、北条義時だったわけです。
これにより後堀河天皇、後高倉上皇が立てられ、一応、形の上では、院政が続くというふうに持っていきます。これを家臣である(王家ではない)義時が差配したというところが、3上皇配流よりも、実は、一番大きな出来事であると言えます。
そうなってくるともう西方の人たちは、貴族も含めて、誰も文句を言えないというふうにならざるをえません。
西国の武士たちの粛清と、東国御家人の西方移住
――しかも、このとき西方の武家、責任者クラスの公家など、かなりの数が粛清されていますね。
坂井 そうですね。こんなことがまた起こっては困りますので、徹底的に粛清を行います。もちろん、逃げている人たちもいたわけですが、何年もかけて捜索して、見つけ出して処刑する、あるいは流罪にするということをやっています。したがって、そこには徹底した意志が感じられます。
そういうことで、ガラッと、それまでの朝廷と幕府の関係は変わってしまいます。力関係が逆転したと言えます。
同時にもう一つ、非常に大きな出来事は、京方として参戦した武士たちの土地などが全部没収されるわけです。承久の乱による「3000カ所の没収地」と言われていますが、要するに主人がいなくなった土地です。代わりに鎌倉方に味方をした武士たちが恩賞として与えられ、入っていくことになります。
先ほど申し上げたように、幕府の軍事力の基本は東日本(東国)です。その人たちが(承久の乱で)戦い、恩賞として西のほうの土地をもらう。それで、東国から西国へ移住することになり、民族大移動のようなことが起こりました。
しかも、西日本と東日本は、やはりいろいろな点で慣例が違うわけです。現在でも、いろいろな慣習が違うようなことがあります。
荘園ひとつ、公領ひとつ取ってみても、年貢をどういうパーセンテージで納めるのか、税をどのぐらいの割合で納めるのか、どういう先例があるのかなど、西日本は西日本で独立してあったにもかかわらず、東国の武士たちが入ってくると、自分たちの取り分を多くするためにいろいろ無茶なこともするわけです。そうなると、「あいつらの言うなりにはなりたくない」ということで、反発が起こってくる。
このようなかたちで、取り分に関する訴訟が、ものすごくたくさん起こります。それを調整しなければいけないのが、鎌倉方の大将として上洛していた北条泰時、北条時房、そして三浦義村といった人たちです。
とくに北条泰時、時房というのは六波羅探題という立場で朝廷を監視し、さらに西日本で起きてくるさまざまな相論に対して、鎌倉に対応を打診して解決していくことになっていくわけです。
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