源実朝が暗殺された後、なぜ、後鳥羽上皇と北条義時は対立を深め、戦うことになったのでしょうか。

その前段として、源実朝が「親王将軍推戴構想」を進めていたことは、先に配信した記事のとおりです(「源実朝の奇策……親王将軍推戴構想」)。しかし、実朝の死により、その構想は水泡に帰します。

その後、なぜ後鳥羽上皇は北条義時への怒りを高めていくことになるのか? また、北条義時がこの時期に、それまで署名に用いていた「右京権大夫」という役職を「陸奥守」に変えたのですが、このことが意味することとは?

教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、坂井孝一先生の講義「源氏将軍断絶と承久の乱(全12話)」を配信しています。今回、このうちの「承久の乱」に関する3話をピックアップして紹介します。

なお、中編では「その『ありえない』結末とは?」、後編では「和をつくる人・北条泰時の徳政と御成敗式目」を深掘りしていきます。

以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、坂井孝一先生の講義をお届けします。

講師:坂井孝一 (創価大学文学部教授/博士【文学】)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

次期将軍予定者「三寅」の迎え入れと源頼茂の追討

坂井 (源実朝の暗殺後に)結局、親王は最終的には(鎌倉には)下さないことになります。幕府が「では、誰にするか」とおうかがいを立てると、後鳥羽上皇から「摂政や関白の子供でも、反対しない」と言われます。後鳥羽上皇としても親王は下さないけれど、朝廷と幕府が完全に敵対することは望んでいないわけです。ですから、摂政や関白の息子であれば容認するという発言をしました。

それを三浦義村あたりが聞いて、「では」といろいろ調べたところ、源頼朝の血筋の遠縁で、九条道家の息子に三寅(みとら)という2歳の幼児がいます(後の藤原頼経)。それを将軍予定者として迎え入れるというふうに決定が下されます。

ただ、その三寅が鎌倉に下っている最中に、不満を持った源頼茂という摂津源氏の有力者がいました。以仁王の乱のときに一緒に挙兵し、武力となった源頼政の子孫です。内裏を守る役目を仰せつかっている名門で、院近臣でもある人です。

彼は政所の別当もやっていました。院近臣であり、源氏の名門ですから、先ほど言った政所の9人の別当として増員された1人が頼茂でした。

源頼茂からすれば、自分は北条義時たちと違って源氏であるのだから、自分が将軍になってもおかしくないだろうと考えていたにもかかわらず、2歳の幼児の三寅を連れてくるのはありえないということで、謀反を企みます。

その計画が漏れてしまいます。(源頼茂は)御家人ではありますが院近臣でもありますから、在京の武士たちが後鳥羽上皇の許可を得て、追討に向かいました。頼茂は当然抵抗します。しかも「もう勝てない」と分かった時点で、内裏に火を放ってしまうという想像しがたい暴挙に走ります。その結果、大内裏の重要な部分が燃えてしまって、歴代の宝物も焼失します。

後鳥羽上皇の大きなコンプレックス

坂井 これは後鳥羽上皇にとっては大変大きなショックです。なぜかというと、後鳥羽上皇は平家が三種の神器を西海に持っていってしまっているときに践祚したものですから、天皇の正統性を示す三種の神器なくして位に就いたという負い目を持っている。

さらに、平家が滅んだときに草薙剣という三種の神器のうちの一つが海の底に沈んでしまいました。その後、後鳥羽上皇は何回も何回も探させますが、ただし、壇ノ浦のあたりは海流が激しくて、見つかるわけがありません。

このことにより、(後鳥羽上皇は)正統な天皇として欠格事項を持っているというようなコンプレックスをずっと抱いていました。有能な帝王であるにもかかわらず、そういうコンプレックスとともに生きてきた人なので、天皇の住まいの象徴である大内裏を燃やされ、宝物もたくさん焼失してしまうということは、精神的に極めて大きな打撃だったのです。

その原因をつくったのは要するに幕府であるわけです。幕府の将軍の地位をめぐる内紛がこういうことをもたらしたわけです。ですから、(後鳥羽上皇のなかには)幕府に対する敵意が、ふつふつと沸いてくるだろうと思います。

しかし、燃えてしまった大内裏は再建しなければいけません。もちろん(後鳥羽上皇は)再建事業に立ち上がりますが、再建事業には大増税が必要になります。これに対しては、貴族も寺社も幕府も、いろいろなところが反対するわけです。古今東西を問わず、大増税に対しては反対が起こるものです。そのため、再建事業はなかなか遅々として進まず、苛立ちを募らせていきます。

もちろん、貴族も反対しています。寺社も反対しています。しかし、後鳥羽上皇にとって一番腹が立ったのは、やはり幕府です。「原因を作ったのは幕府でしょう。幕府が反対するのは筋違いだ」と後鳥羽上皇からすれば思うはずです。しかも、源実朝が生きていたときには、「閑院内裏(かんいんだいり)」という内裏の修造をしましたが、実朝は積極的に協力したのです。その実朝が死んだ後、北条氏が牛耳るかたちになった幕府はまったく反対の行動をとっている。これはもう、敵意がマックスになってきます。

そこで、この幕府を率いている北条義時を討つしかないというふうに、承久2(1220)年から承久3年にかけて(後鳥羽上皇は)考えるようになります。

北条義時が「陸奥守」と名乗りを変えた深い理由

坂井 一方、幕府のほうはどうかというと、源実朝が殺された後、親王は来なくなり、2歳の三寅が来た。2歳ですから何もできません。ということで、北条政子が亡き将軍(実朝)の母、亡き源頼朝の後家ということで、実質的な四代目鎌倉殿になります。

それは、ただ単なる亡き将軍の生母や後家だったというだけではありません。親王将軍の交渉を「女人入眼」で成立させたときに後鳥羽上皇から従三位、さらに従二位という高い位階を賜っているのです。頼朝が亡くなったときに出家して以来「尼御台」といわれているように、(政子は)尼でした。尼に対する叙位は極めて例が少なく、後鳥羽上皇が強力に推し進めたことによって認められた位階なのです。

従二位は、本当に高い地位です。そのように、全国共通のステータスのなかでも極めて高い地位にあることからいっても、幕府を代表するのは北条政子しかいないわけです。

しかし、実質的には政子の弟の北条義時と時房、さらにかなり年齢を重ねましたが大江広元や三善康信のような人たちが(幕府を)率いていくという集団指導体制になっています。

そのなかで彼らが何を考えるかというと、実朝時代、要するに源氏将軍の時代の幕府とは違う路線を歩もうとしていることが分かります。

その象徴的な一つが、義時の肩書きの変化です。

政子は尼将軍として命令を下しますが、署判は義時が担当します。承久2年の7月までは「右京権大夫」というもので、歴代北条氏のなかでは最高の官職です。といっても中流貴族でしたが、右京職の副長官です。

京都は右京と左京に分かれています。右京職・左京職というのは実質的に機能しなくなっているので、名誉職といっていいのですが、しかし、京都というところは首都ですから、格は高い。義時は相模守であり、時房も武蔵守になったりしていました。しかし、これらは京都から離れた一地方の国の守(国司)なので、(右京職とは)やはり格が違うのです。

そこで義時は、実朝が将軍だった頃は「右京権大夫」という署判をしていました。ところが建保5(1217)年、大江広元が自分の賜っていた「陸奥守」という陸奥国(東北地方)国守(長官)の官職を返上することになります。目を患い、出家をしたのですが、出家をしたら官位を返上しなければいけません。これにより陸奥守が欠員になったため、実朝は義時に兼ねさせます。つまり、「右京権大夫兼陸奥守(兼相摸守)」です。しかし、陸奥守のほうが右京権大夫より下ですから、署判をするときには一番上の官職(格)である「右京権大夫 平朝臣義時」と書いていたわけです。

坂井 それが承久2(1220)年の9月になると、「陸奥守」に変わっていきます。それは「右京権大夫」を辞任したからではありません。右京権大夫は、承久の乱の後、何年か経ってから辞任します。ですから、右京権大夫という官職にありながら、それより格下の、東国の国守である陸奥守を自分の肩書きにするのです。

しかも陸奥守というのは、幕府にとっては非常に意味のある役職で、遡っていけば、源頼朝の祖先の源頼義、それから八幡太郎義家のような人たちが陸奥守になっています。

こういうことを考えると、東国を代表する官職として、自分は源氏ではないけれども、源頼義や源義家と同じような陸奥守として東国で権力を握るのだということを公にする。とくに、命令書は御家人たちに下しますから、御家人たちに意思表示をするということなのです。

朝廷との関係を、これまで源頼朝も、頼家も、実朝も、非常に重視してきました。最終的には親王まで将軍としてもらおうとしていた。その方向とは、まったく別のベクトルが、義時の中には働いていたというふうに評価できるのではないか、と私は今は考えています。

そういうことで、御家人たちに「自分は陸奥守として幕府を率いていく」ということを表明するようになった。それが承久2(1220)年の段階です。

このように後鳥羽上皇の側は、幕府に対しては不満を高めている。今、幕府を率いているのは北条義時だ。この義時を排除しなければいけない。義時のほうは、東国の頂点に立つのは陸奥守である自分であることを、御家人たちにちゃんと理解しろと表明している。この状況が、承久3(1221)年初頭の段階になっているわけです。

――やはり実朝の死が非常に大きな種をまいてしまったということですね。

坂井 そういうことですね。ですから、実朝が暗殺されるということがなければ、歴史はまったく別の方向に動いていたというふうに言わざるをえません。

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協力・動画提供/テンミニッツTV
https://10mtv.jp/lp/serai/

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