最澄、空海、源信、法然、明恵、親鸞、道元、日蓮ら、日本の名僧たちはどのような生涯を歩んだのか。そして実際に、どのようなことを説いたのか――。彼ら名僧たちの名前は知っていても、何を考え、何を説いたのかまでは知らないことが多いのではないでしょうか。

教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、頼住光子先生(東京大学大学院教授)に、名僧たちの「生涯」と「著作」をご解説いただいた画期的な講座「【入門】日本仏教の名僧・名著」を配信しています。

頼住先生は、次のように語ります。

《「文は人なり」ということがありますので、ただ「こういう思想ですよ」と言って概略を紹介されるよりも、実際に読んだほうが理解が深まる、と考えています》

実際に、古典をひもといたほうが、よくわかるというのですが、そもそも仏教の古典は、言葉だけでも難しいもの。それを驚くほどわかりやすく読み解いてくれるのが、頼住先生の講座なのです。名僧の息吹をじかに感じつつ、その教えを理解することができます。

このテンミニッツTVの頼住光子先生のシリーズ講義「【入門】日本仏教の名僧・名著」から、特別に「親鸞」編の前半部分をピックアップします。

親鸞が説いた念仏の教えの根幹とは何か? 法然と親鸞の違いは? 出家の身でありながら妻帯した親鸞の真意とは? など、さまざまな角度から、親鸞の生涯と教えに迫ります。

以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、頼住光子先生の講義をお届けします。(※頼住先生のお名前の「頼」は、正しくは旧字)

※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp/lp/serai/)からの提供です。

講師:頼住光子(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部倫理学研究室教授)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

源信から法然、そして親鸞へ

――それでは「日本仏教の名僧・名著」、次は親鸞のお話をうかがえればと思います。

親鸞は1173年~1262年の人ということですので、ちょうど明恵と同じ年にお生まれになって、明恵よりも長生きされたということですね(明恵:1173年~1232年)。

頼住 そうですね。90歳までということで、当時としては非常に長命でいらっしゃいます。

――90歳とは本当に長命でいらっしゃったわけですね。親鸞は皆さんがよくご存じのように、法然のあとを継いで、布教を続けられたという方だと思います。法然のお話のときに、源信から法然にかけて変わった部分についてお話をいただきましたが、源信→法然→親鸞ということになると、どのように違ってくるのでしょうか。

頼住 源信と法然の間にかなり大きな違いがあることは、以前にお話ししたかと思うのですが、源信の場合、インド・中国の浄土教の流れを正統に継いでいかれて、「観想念仏」を中心とした「天台浄土教」というものを確立されたといわれています。

法然は比叡山に入って、天台浄土教をご自身で学びました。また、源信のことを生涯尊敬していらしたのですが、源信のいっている観想念仏を中心とした念仏信仰とは違う「専修念仏」を打ち立てます。「南無阿弥陀仏だけ唱えればいい。観想念仏は不必要である」という新しい念仏の教えを築き上げたという流れになります。

さらに親鸞は、もともと法然と同じように最初は比叡山に入って天台浄土教を勉強していたのが、あるとき山を下りて法然の教団に入り、法然の教えに帰依していきます。法然・親鸞は、教えとしては専修念仏、すなわち「南無阿弥陀仏と唱える」という教えになってくるかと思います。

対面での教えを大切にした法然、「書き残す」ことを重視した親鸞

――そうすると、法然と親鸞の違いというのは、もちろん同じ「専修念仏」といっておられるわけですが、それぞれの特徴としてはどういうことになりますでしょうか。

頼住 法然は念仏を学問的にも非常に究められた方なのですが、ご自身の資質だったのか、ご自身ではあまりお書きにならない方でした。

――文章を、ですか。ご本とか。

頼住 そうですね。文章を書くことにそこまで重きを置いていらっしゃらないということで、むしろ対面して教えを説きました。まさにお釈迦さまがそうだったわけですが、その人その人に教えを説いていくというところを非常に大切にされた方だと思います。

主著の『選択本願念仏集』なども、ご自身ではほとんど書いていません。最初のところをほんの少しご自身でお書きになっただけで、あとは口述筆記をさせています。ということで、あまり体系化して書き残していくところに重きを置かなかったのです。むしろ自分で境地を深め、また、それを人びとに説いていくというところを非常に大切にされていた方なのではないかと思います。

――乱暴な言い方かもしれませんが、理論化をするよりも、むしろ実践面で教えを説いていくことが主眼だったということでしょうか。

頼住 そうですね。もちろんその教えや実践の背後には、非常に広範な理論的な研究の成果があるのですが、そこを全部細かく整理して残していくというタイプの方ではなかったということになると思います。それに対して、親鸞は、極めて理論家であり体系家でもあって、「書き残す」ことを非常に重視された方です。

親鸞の「浄土真宗」とは「法然の教え」のこと

頼住 ただ、親鸞自身の気持ちとしては、法然の教えとは違う教えを自分がつくっていくということはまったくなかったと考えられます。例えば、親鸞ご自身が「浄土真宗」という言葉を使われますけれども……。

――現代では、法然の宗派が「浄土宗」、親鸞のものが「浄土真宗」とわれわれは一般的に言っていますけれども……。

頼住 そう言われます。ところが、そうではないのですね。

――そうではないのですか。

頼住 はい。親鸞のいう「浄土真宗」というのは宗派名ではなくて、「浄土に関する真実の教え」という意味で、具体的にいうと「法然の教え」を指しているのです。

それは、前後の文脈からそうとしか読めないのです。そういうことから見ても、親鸞は法然の教えを自分なりに一度受け止めて咀嚼し、それを体系的にきちんと残していこう、理論的に残していこうという方ではなかったかと思います。

特に主著である『教行信証』は、9割以上がお経や浄土教に関するさまざまな論からの引用だけで出来上がっています。それらの引用を通じて、親鸞は法然のいっている「専修念仏」というものがこれまでのお経、すなわち釈尊の教えの中にどう当てはまるか(を考えて)、「お経の中のこの部分をこのように集大成すると、それは専修念仏の教えしかないのだ」ということを言いたかったと思います。そして、法然の教えをきちんと理論的に後付けていきたい、そういう気持ちで活動されていたのではないかと思います。

越後に流され、「非僧非俗」として妻帯した親鸞

――なるほど。他には、親鸞の生涯を拝見すると、法然が晩年に他の宗派から攻撃を受けて迫害された時期に、親鸞ご自身も別の土地に流されたようですね。

頼住 そうです。法然のほうは、最初は土佐(高知県)に流される予定だったのが、もう少し都に近い讃岐(香川県)に流されました。親鸞のほうは、やはり法然と同じく還俗(げんぞく)させられ、僧侶としての資格を剥奪されて、越後(新潟県)に流されます。親鸞の場合は、ある時期に許されて、都に帰ってきてもよかったのですが、すぐには帰らずに関東地方を転々としながら、法然の念仏の教えを人びとに説いていきました。そういうことになるかと思います。

――越後(新潟)に流されたのは、親鸞にとってどういう意味がありましたでしょうか。

頼住 それは、そこで奥さんとなる恵信尼という女性と出会ったことでしょう。流されて以降、親鸞は自分のことをずっと「非僧非俗」と名乗っていきます。

――僧侶ではなく俗でもないということですか。

頼住 そうですね。「僧侶ではない」というのは、強制的に還俗させられて、僧侶としての資格を剥奪されたから、僧侶ではない。けれども、自分は専修念仏の教えを広めることを使命としているので、単なる俗人でもない。そこは、仏道に生きる人間だという自負があったために「非僧非俗」と名乗られていったと思います。 そうした「非僧非俗」の自覚というのは、還俗させられて流罪になったことが非常に大きく働いたのではないかと思います。

親鸞を支えた妻・恵信尼の家柄は「善光寺聖の元締め」か

――新潟で恵信尼と結婚されたということですが、当時僧侶が結婚するというのは結構あった話なのでしょうか。

頼住 「内内に」というのはあったと思いますが、親鸞の場合は大っぴらに結婚されたということですから……。ただ、先ほど申し上げましたように、「非僧非俗」の立場でございますので。

――もう還俗させられたということになっているわけですね。

頼住 そうですね。その立場を貫いていらっしゃいますので、結婚すること自体にそれほど大きな罪の意識があったかどうかというと、現代人の感覚とはまたちょっと違うのではないかと思います。

恵信尼という方がどういう人かということでは、研究者の方々がいろいろと説を出していらっしゃって、まだはっきりとはしていません。ただ、一つご紹介しておきたいのは、恵信尼は「善光寺聖」の元締めのような家柄ではなかったかという説です。当時、民間の仏教者は大勢いて、長野県の善光寺がその中心になっていました。

――「善光寺聖」というと、善光寺さんの教えを広めていくという立場ですね。

頼住 そうですね。善光寺には非常に古い阿弥陀仏が安置されていまして、念仏信仰の一つの中心でもあったわけです。善光寺聖たちは、親鸞を都からやってきた非常に学識の高い僧侶ということで、一つのシンボルにしていたという説もございます。

そういう説を立てる方々には、親鸞が関東地方を転々とするときに善光寺聖の根拠地を回っていたという説を唱える人もいます。ここはちょっとはっきりしない点が多いのですが、親鸞が専修念仏の信仰を続けるにあたって恵信尼の一族からのバックアップは非常に大きかったのだろうと、私は考えています。

――少し話題が逸れますが、「聖(ひじり)」という方々が教えを広めていくということですが、この方々は僧侶なのかどうか。そのあたり、どういう扱いになるのでしょうか。

頼住 「聖(ひじり)」というのは民間の仏教者ということで、非常に古い時代から日本にいたといわれています。「ひじり」は大和言葉では「日を知る」ということです。古代の人たちにとって、「今が何日か」ということを分かっているのは非常に神秘的で大切なことではあるけれども、一般の人に知れることではない。ある種の宗教的な権威を持った人たちが管理しているという知識だったのです。

そういう「ひじり」は仏教以前からいました。仏教が入ってくると、その人たちが仏教を取り入れて、民間宗教として仏教を広めていったといわれています。「聖」と書くことから、今では仏教の中でも民間信仰を担った集団で、その中には俗人に近い人もいるといったイメージですが、非常に古い時代から日本の民間宗教を担ってきた人たちです。その人たちの中に、当時念仏信仰を広めていた人がいたということになります。

――そういう意味では、「非僧非俗」の境遇になっていった親鸞からすると、ある種、共通点というか、親和性が高い人びとであったことは間違いないわけですね。

頼住 そうですね。その「恵信尼、善光寺聖の元締めの家」説によると、そういうことになるのではないかと思います。

1話10分の動画で学べる「大人の教養講座」テンミニッツTVの詳しい情報はこちら

協力・動画提供/テンミニッツTV
https://10mtv.jp/lp/serai/


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