徳光和夫(フリーアナウンサー)

─アナウンサー生活60年。“非まじめ”に生涯現役を目指す─

「真正面以外からものを見ること。これがすなわち“非まじめ”であります」

豊川稲荷 東京別院にて。レギュラー紀行番組『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系/毎週日曜15時20分~※週により16時15分からの場合もあり)のひとこまだ。

──アナウンサーとなって60年目です。

「もうそんなになりますか。随分経ったものですね。ひと言で申しますと“非まじめ”なアナウンサー人生でありました」

──どういうことでしょう。

「何事も真正面から物事を見る。これが“まじめ”です。生き方としてはいいことなんでしょうけれども、人生として面白いのは、“まじめに非(あら)ず”だと思うんですね。例えば皆さんが絶賛しているものに対しましてですね、ちょっとやぶにらみで見てみようかと。メジャーリーグで活躍している二刀流の大谷翔平選手。誰もが知るスーパースターですが、これを斜めから見てみる。大谷選手が高校1年生の時にすでに目を付けて“メジャーで活躍する”と太鼓判を押したのが、ロサンゼルス・ドジャースの日本担当スカウトの小島圭市さんです。彼は今どうしているのか、今の大谷選手をどう見ているのか、ということが気になってくる」

──あらゆる角度から物事を見るのですね。

「ニュースは英語で『NEWS』と綴りますが、North(北)、East(東)、West(西)、South(南)の頭文字を繋つなげたという俗説があります。実際ニュースは、東西南北あらゆる方面の事象を取り上げるわけでありますけれども、正面から見てみる、斜めから見てみる、被害者から見てみる、当事者から見てみる、といろいろ見方があるわけでして、そういう真正面以外からものを見ることをアナウンサーとして学びました。幅広く見る、これが面白い。言い換えますと“非まじめ”となるわけであります」

──その極意に至った経緯は。

「わたくしの人生は“運と縁”に支えられております。といってもギャンブルの運ではなく、人の運であります。例えば高倉健さん。寡黙な人という印象がおありでしょうが、お目にかかると実によくお喋りになる。冗談も言う。決してまじめ一辺倒ではありません。渡哲也さんもまじめに見えますでしょ? ところが舘ひろしさんに伺ったところ、一緒に温泉に入ると、顔まで潜って目だけ出すんだそうです。それですーっと近づいてきて、舘さんの耳元で“カバ”と言う。お茶目なんです。幅があるんですね」

──非まじめとは「幅」なのですね。

「自動車のハンドルと同じです。F1の車と違って、普通の車にはハンドルに遊びがありますでしょ? あれが大事だと思うんです。力感をなくすと申しますか。野球の投手もそうですね。いくら速い真っ直ぐを持っていても、それだけだと打たれる。スライダーを投げる、フォークを投げる、打者との駆け引きをする。そういう幅があってはじめていいピッチャーといえるわけです。全力で100出そうとするより、70、80でいい、と思ったほうがうまくいく」

10歳の頃。「成績はオール3の何の取り柄もない少年でしたが、お喋りだけは達者でしたね」と徳光さん。このあと落語にはまっていく。

──子どもの頃は、まじめだったのですか。

「そう言われますと、子どもの頃からお調子もの、非まじめ人間だったかもしれませんね。成績は小中高と、可もなく不可もなくのオール3。とにかくよく喋っていたようです。しかも他の子と口調がちょっと違っていた。何十年経っても、同窓会で“お前の口調は変わっていた”と言われるくらいですから」

──どんな口調だったのですか。

「小学生の高学年頃からでしょうか。落語が好きでしてね。『明烏』なんていう廓噺を何席か、中身もわからず覚えておりました。廓噺にはたいてい、一八という名の太鼓持ち、幇間が出てまいります。この幇間の語り口がね、子ども心にいたく気に入りまして」

──幇間の口調を真似ていた。

「宿題を答えてみろと、先生、あたくしをお指しになる。いやあまいりましたな。夕べちょっとおふくろがね、徹夜でちょいと手袋を編んだりなんかいたしまして。それを見ておりましたところ、あたくし、すっかり宿題のことを忘れてしまいまして。いやあどうもすみません……。という調子でやっておりました。これが小学5年生頃のことです。先生からも同級生からも“何なんだ、お前は”と呆れられておりました」

「わたくしの人生は、人との運と縁に支えられてきました」

──アナウンサーには、なぜなろうと?

「これも人の“縁”でして。高校2年生の時に、たまたま東京六大学野球を観戦したことが人生を変えました。忘れもしない、昭和32年11月3日、立教大学対慶應大学の一戦です。ひとりの選手が内角低めのカーブをすくい上げ、当時の大学新記録となる8号ホームランを神宮球場のレフトスタンドに突き刺したんであります。神宮の星・立教の長嶋茂雄選手でした。前からファン? いえいえ、恥ずかしながらこの時は、良い選手だなと思っていた程度です。しかし神宮で縦横無尽に躍動する姿をこの目で見、“この人に近づきたい”と心震えてしまったのです。それから一念発起して、長嶋さんの母校の立教大学に入学。大学の親友(後に文化放送のアナウンサーになった土居まさる)から“アナウンサーだったら長嶋さんに会えるかもしれないよ”と言われて、その気になってアナウンサーを目指しました。長嶋さんとの縁がなければ、今はありません」

──当時も今も、アナウンサーは狭き門です。

「わたくしには“運”がある(笑)。当時の日本テレビのアナウンサー試験は、500人以上受けましたが、わたくしは一次の筆記試験をぎりぎりパス。二次のマイクテストは、子どもの頃から物怖じしない性格が生きて上位で通過。三次はカメラテスト。子ども番組の司会、テレビの生コマーシャル、『時の総理と語ろう』という政治座談会の3つからひとつ選んで受けろという。ここで“非まじめ”が生きてくるわけです」

──どういうことですか?

「まじめに考えますと、この中で自分にいちばん合っているのは、子ども番組の司会だろうと思いました。しかし、いや待てよ、と。斜めからやぶにらみしてみると、これは“何を選んだか”こそ重要なんじゃないかと、急に思い至りました」

──試験の裏を読んだ。

「これは親に感謝しなければなりませんね。中学生の頃、親にしょっちゅう麻雀に引っ張り込まれておりまして。麻雀となると、両親ともに本気で、我が子だからって容赦しません。平気で騙す。引っ掛ける。幸か不幸か、疑り深い少年になりまして、裏読みするのが常となりました。この時も一歩引いて、斜めから眺めると、試験官の意図が何となく見えてきた。そこで、あえて誰も選ばなそうな、政治座談会を選択しました。これを選んだのは16人中、わたくしともうひとりだけ。このふたりは揃って、その先に駒を進めることができたんであります。母親に散々振り込んだ経験も、無駄ではなかった。おかげで入社1年後、憧れの長嶋さんにお目にかかることもできました」

──縁が繋がっていきます。

「縁といえば、西城秀樹さんのことも思い出深いですね。弟のようだ、というと語弊があるかもしれませんが、スターぶらない自然体の人で、親しくさせていただいておりました。その縁で、平成13年、秀樹さんの結婚式の司会を頼まれます。わたくしがちょうど、60歳の時でした。ところが心筋梗塞で入院してしまいます。集中治療室に72時間という大手術で、一命は取り留めたものの、すぐ退院というわけにはいきません。秀樹さんに連絡すると“前の日まで待つから”と。これは復帰しないわけにはいきません。式の4日前に退院し、無事、務めを果たせました。秀樹さんのおかげです。俺を助けてくれたのに、先に逝きやがって……」

──縁が徳光さんを支えている。

「他にも、ジャイアント馬場さんや美空ひばりさんなど、たくさんの方々にお世話になりましたが、日常にも“縁”は転がっております」

──具体的に教えてください。

「年末のことです。都内をぶらぶら歩いておりましたら、薬局の店頭のポスターに目が留まりました。体重100㎏の男性が67kgになった、という写真入りの広告でした。興味が湧きましてですね、店に入ってみたところ、そのポスターの主が店主でした。そこでいろいろと話を聞きまして、漢方薬や玄米がいいという。その中でいちばん大きなポイントは、玄米とお米を半々で炊いて、口に入れたら100回噛むということでした。これがやってみましたところ、20日程度で7〜8kg 痩せたんであります。これも“運と縁”ですね」

──通りがかりの店に飛び込み運を掴んだ。

「『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)という番組を長くやっておりますが、寄り道するのは得意でありまして。ゴールに真っ直ぐ行かず、斜めに進んだり、横道に逸れたり。そうするとですね、思いもよらない出会いや発見が待っている。こうしたことが楽しいんでしょうね」

徳光さんと田中律子さん(左)に、毎回ゲストを加え、路線バスで自由気ままに旅する『路線バスで寄り道の旅』。スペシャル版から数えれば、今年で放送は丸10年となる。

「妻の話に耳を傾けていると、幸せな気持ちになる」

──80歳を過ぎ、生活は変わりましたか。

「相変わらずギャンブルは好きですし、日テレ時代と変わらず、仕事の現場には電車で通っております。ふたりの子どもたちもすでに独立、妻とふたりで穏やかにやっております。それでもいくつか変化がありました。ひとつはタブレットです」

──先ほどもタブレットを触っていました。

「仕事の合間にも馬券が買える。なんと便利な世の中でありましょうか。実はパソコンも触ったことがないアナログ人間でして、一生縁がないと思っていました。ところがこのコロナ禍でしょ? 競馬場に行けません。マネージャーに嘆いたら、ネットには馬券が買えるサイトがあるという。そこでえいやっとタブレットを購入。ネット銀行に口座も作りまして、毎日のように競馬三昧です。操作ですか? そりゃ見事なもんです。ところが資金がすぐそこを尽き、挙げ句の果てに定期預金を解約。どうせ俺の人生だ、残したってしょうがないと開き直っております」

コロナ禍で競馬場に行けなくなり、タブレットを購入。パソコンを触ったこともなかったが、今では合間を見つけては、タブレットからネットに接続し、馬券を購入している。

──奥さまは何と?

「妻には本当に感謝してもしきれません。若い時分から何度もスッテンテンになりましたが、悔いていると“競馬と競艇で損をしているからがんばろうと思えるのね”と言ってくれる。わたしには過ぎたかみさんです。最近妻は、初期の認知症という診断を受けまして、それも変化のひとつです」

──それは大変です。

「もちろん、同じ話を繰り返したりすることはあります。でも何度でもつきあってあげる。というより、同じ話でも、楽しい時間なのです。それまでは仕事に子育てにと夫婦だけで会話する時間をなかなかとれませんでしたが、今はたっぷりある。昔話ばかりですが、同じところで一緒に笑い、妻の話に耳を傾けていると、幸せな気持ちになるのです。認知症であろうがなかろうが、目の前にいるのは、愛する妻です。半世紀以上にわたって、共に暮らしてきたかみさんです」

──話しているお顔が、幸せそうです。

「禍福は糾える縄の如(ごと)し、という言葉がありますでしょ? この言葉が好きなんです。真正面から見れば不幸と思えることも、見方を変えればそうではありません。幸不幸は順に巡ってくると思えば、何があっても驚きません。ギャンブルも人生も同じです」

──人生の終わりは意識していますか。

「妻のためにも、長く健康でありたいと思っています。生涯現役で、お茶の間に顔を見せ続けることができたら、それが何より嬉しいですね」

「これが大好物なんであります」と、満面の笑みで東京・巣鴨『みずの』の塩大福にかぶりつく。おはぎなど、甘い餡子に目がないのだという。

徳光和夫(とくみつ・かずお)
昭和16年3月10日、東京生まれ。長嶋茂雄に憧れ、同氏出身校の立教大学に進学。昭和38年日本テレビ入社。『ズームイン‼朝!』では総合司会を9年間担当。『NNNニュースプラス1』のメインキャスターも務めた。平成元年にフリーアナウンサーに。レギュラー番組に『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)、『名曲にっぽん』(BSテレ東)など。著書に『徳光流 生き当たりばったり』。

※この記事は『サライ』本誌2022年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

 

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