「三浦義村=黒幕説」を検証する
坂井 それから戦後、永井路子さんが新たな説を出されました。「三浦義村はそのとき自宅にいた。義村は公暁の乳母夫だったから、義時と実朝を殺させて、自分が執権になろうという(野望を持ったのではないか)。そのために公暁を将軍にしようという計画の黒幕だったのではないか」というものです。
義村が自宅にいたのは、その前のいろいろな行事でちょっとした失策をして、自宅待機を命じられていた可能性があるのです。そうでなければ、義村ほどの有力御家人が、右大臣拝賀という幕府全体で行っている大規模な行事に勝手に欠席することなど、できません。別に喪中であるというような事情もないので、出席しないという選択を義村がすることは不可能です。だから、彼が自宅にいたということは「出席するな」と命じられていたと考えざるをえない。
しかも、実際に公暁が実朝を殺し、公暁の一味が「義時だと思って」と『愚管抄』に書いてあるのですが、源仲章を殺した後、彼らは義村のところを頼って行きます。しかし、義村は即座に義時に通報して、義村の手の者によって公暁が殺されるということがあります。ですから、義村も黒幕とは考え難い。
もし、(三浦義村が)北条氏をつぶそうとしたという永井さんの説によるならば、もっと早い段階で、たとえば和田合戦のときに和田義盛に味方していれば十分可能だったわけです。それをしなかった義村が、この右大臣拝賀のところで公暁を使って……、というのは考えにくいところがあります。
そうなると、追い詰められた公暁及びその一味の単独犯行というふうに結論せざるをえません。私が唱えているこの説に対して、多くの研究者の方が、「まあ、それしかないだろうな」というふうに賛同されているのが現状です。
事件の後、動転する幕府首脳部
――とにもかくにも、源実朝は暗殺されてしまった。ここでまた、親王を将軍にお迎えするのはどうするかなど、幕府のかたちの問題になってくるわけです。以前にいただいた講義〔テンミニッツTV:鎌倉殿と北条氏(7)源実朝から北条政子・義時の時代へ〕でも、実は実朝を慕っている御家人が非常に多くて、たくさんの人が出家したというお話をご紹介いただきました。この後はどういうふうになっていくのでしょうか。
坂井 やはり政子が激怒して、公暁一味を捕まえるような指令を出します。ただし、それほどたくさんはいません。それは、もちろんそんな危ない橋を渡るような人は多くはない。
これと同時に、政子の命令で宿老たちが連署をして、「実朝が死んでしまったので、早く親王を関東に下向させてください」ということを後鳥羽上皇のほうに申し入れます。その慌てぶりから考えてみても、「実朝が死んだら、もう親王将軍しかない」というふうに幕府の首脳部が考えていたことがよく分かります。
――流れもそうなってきていたわけですからね。
坂井 そうですね。もう少しで親王が下っても大丈夫な体制ができるところまで来ていたわけですからね。
しかし、後鳥羽上皇の側からすれば、将軍が殺されてしまうような場所に自分の息子を送り込むようなことはできない。しかも、実朝という非常に重要な駒がなくなってしまった。その後は北条氏がトップにならざるをえないわけです。
そうなると、北条氏がトップの幕府が、実朝の率いてきた幕府と同じような動きをするのかどうか。これは、後鳥羽上皇としては不信で仕方がない。ということで、いろいろな駆け引きを行っていくわけです。
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