源実朝が「素晴らしい歌人」であったことを知る人も多いことでしょう。和田合戦の直後に彼が編んだ『金塊和歌集』は、後世の評価も高いものです。それゆえもあるのでしょう、実朝を「文弱」「ひ弱」と指摘する傾向も続いてきました。
しかし、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証をお務めの坂井孝一先生は、そのような見方は、必ずしも正しくないと指摘します。
当時、和歌は幕府のトップとして朝廷のトップと渡りあう実朝にとって、必須の「政(まつりごと)のツール」だったのです。では、歌に込めた実朝の思いとは、どのようなものだったのでしょうか。
教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、坂井孝一先生の講義「源氏将軍断絶と承久の乱(全12話)」を配信しています。このうち「源実朝の真実」に関する4話をピックアップしてご紹介いたします。今回は、第1話「源実朝の『政(まつりごと)と和歌』の真実」です。
なお、第2話では「源実朝は、なぜ『唐船』を建造したのか」を、第3話では「源実朝の奇策…親王将軍推戴構想」を、第4話では「源実朝暗殺事件…黒幕説の真相」を深掘りしていきます。
以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、坂井孝一先生の講義をお届けします。
講師:坂井孝一 (創価大学文学部教授/博士《文学》)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
和歌に堪能だった武士たち
――侍所別当だった和田義盛が倒れてしまう時代に入るわけですが、合戦の直後には源実朝が『金槐和歌集』を出すことになります。実朝というと、なんとなく一般には「和歌をやっていましたね」「蹴鞠をやっていましたね」というような話が非常に印象深いと思います。しかし、坂井先生は実朝が実はひ弱な将軍ではなかったとお書きになっています。これは、どういうことになりますでしょうか。
坂井 確かに、源頼家に比べて実朝というのは、運動能力の点でちょっと劣っていたのか、気性の荒々しさが違っていたのか、武芸を自分自身で行うという点ではそれほど優れたところはなかったと思われます。その代わり、和歌や蹴鞠のようなものには長じていました。それが、明治以降の近代人からすると、「武士なのに何を和歌など詠んでいるのだ」「文弱だろう」というイメージで捉えられてきたわけです。
しかし、そうではありません。たとえば北条泰時や和田朝盛も和歌を詠みますし、「宇都宮歌壇」といって、宇都宮氏などは自分たちの歌壇をつくるほど和歌に堪能でした。武勇に優れた梶原景時や、その息子で豪傑として非常に有名な景季も和歌を詠んでいるのです。だから、武士も和歌を詠むのです。
――武芸とともに、大和心というとおかしいですが、「情」の部分もよく分かっていないといけなかったということでしょうか。
坂井 そうですね。「文武両道」という言葉がありますが、そういう武士たちも、たくさんいました。たくさんと言うとやや大袈裟ですが、少なからずいました。
さらに実朝の場合は、幕府の頂点に立っているトップですから、当然、朝廷のトップと交渉しなければいけない。治天の君である後鳥羽上皇、土御門天皇から順徳天皇にいたる天皇、さらに摂政や関白のような上流貴族とも交渉をするのが、鎌倉殿、征夷大将軍である実朝の務めであるわけです。
武芸一辺倒で、東夷(あずまえびす)で、和歌も詠めないのか、蹴鞠もできないのかということになると、やはり馬鹿にされてしまうわけです。
「政(まつりごと)のツール」として和歌を詠んだ実朝
坂井 そもそも和歌というのは、神々や仏様、神仏を喜ばせる大和言葉なんですよね。そのことによって天下泰平というものをつくりだそうというツールでもある。
かつて私は、これを「和歌は政治のツールであった」という言い方をしていたのですが、どうも現代人の政治という考え方とそぐわないと思うようになりました。それで、誤解を生まないように「政(まつりごと)のツール」として和歌や蹴鞠があり、ほかにも音楽や学問、漢学などのものがあるのだというふうに捉えていただきたいと思います。
ですから、幕府のトップとして朝廷のトップと渡りあうためには、そうした「政(まつりごと)のツール」を身につけなければいけないのです。
しかも実朝の場合には、和歌の才能に恵まれていた。現代の和歌の研究者として天才的と言われている渡部泰明さんという元東大教授の方がいらっしゃいます。私も非常に親しくさせていただいていますが、渡部氏によると、実朝はやはり天才的な歌人だったという評価です。
そのように「政のツール」に天才的な才能を持っていた実朝は、当然、和歌を詠まずにはいられないわけです。そして、ちょうど朝廷のトップである治天の君・後鳥羽上皇も『新古今和歌集』という勅撰和歌集をほとんど自ら作るようなかたちで編纂した、著名で優秀な歌人です。
――勅撰和歌集と言いますが、実際に天皇や上皇という方が自ら選ぶことは、そうあるわけではないのですよね。
坂井 そうあるわけではないというか、もう他にはないですね。唯一と言ってもいいです。そのぐらい自分自身が優れた歌人であった後鳥羽上皇と友好関係を結ぶ。なにしろ名前ももらっていますし、御台所も(後鳥羽上皇の)いとこをもらっている。そういう関係にあった実朝は、和歌という政のツールを通じて、朝幕関係友好に貢献しているわけです。
『金槐和歌集』と和田合戦、そして鎌倉大地震
坂井 そのために和歌をたくさん詠んでいた。それを自分で取捨選択して、配列などを決め、詞書きも自分で書いて歌集にまとめたのが、和田合戦の後ぐらいだと思われます。
それまでに詠んでいるわけですから、和田合戦の年に詠んだのではなく、それまでに詠みためていたものを編集していたら和田合戦が起こってしまった。それで、和田合戦の後に最終的な編集が終わったというふうに考えられます。
――当時、彼はまだ若いですよね。
坂井 まだ22歳です。
――そこでまとめたというのは、どういう思いだったのでしょう。
坂井 それまでずっと詠んできましたから、ここで一応ひと区切りつけるという意味合いは、もちろんあると思います。家の集と書いて「家集」というのです。「歌の集」ではなくて、「家の集」。
もし、暗殺されずにもっと長生きすれば、実朝は第二、第三の家集を作ったのではないかと思われます。とりあえず663首あるのですが、そのぐらいで一つのまとまりになりますから、そこでひと区切りつけるということをしたのだと思います。
それと同時に、和田合戦が終わった直後に、鎌倉を大地震が襲います。地割れができたり、家が倒れたり、多くの人が亡くなるような、大きな地震でした。
さらに和田合戦の余波という意味でいうと、和田方で生き延びた連中が京都に潜入して騒擾(そうじょう)を起こす危険性がありました。もしも騒擾が起こって、天皇や上皇に危害が及ぶようなことになれば、それは実朝の責任になります。ですから、院の御所、天皇の内裏を警護せよという命令を、実朝は何回も出します。
それと同時に、大地震が起きた。その両方が一緒になって、「山は裂け海は浅(あ)せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」という有名な和歌を詠みました。
歌に託した実朝の心と幕府政治の安定
坂井 これは私の考えで、先ほどの渡部泰明氏も支持してくれていますが、おそらく(実朝は)和歌を通じて後鳥羽院に自分の気持ちを伝えたかった。もし和田方の残党が京都に潜入したとしても、「院(上皇)にふたごころはまったくありません」ということをなんとか伝えたい。それを効果的に伝えるには、優れた歌人である後鳥羽院に和歌を贈るのが一番だということで、あの名歌が生まれたわけです。
これは、家集のために作った歌ではありません。しかし、その年の最後、もう和田合戦が終わって一段落してきたところで、これも入れておきたいと実朝は思ったのでしょうね。なぜかというと、その『金槐和歌集』を、彼は京都の藤原定家の元に送っているからです。
藤原定家は後鳥羽上皇の和歌所で『新古今和歌集』を編んだ撰者の1人でもあり、後鳥羽院と和歌のつながりも非常に強い。ですから『金槐和歌集』を後鳥羽上皇にお見せするようなこともありうるわけです。むしろそれを期待していると思う。そうすると、「あのときに詠んだ和歌ですよ」というのをそこに入れておくことは、かなり効果的なものになります。そういうこともあって、最後に付け足したのだと考えています。
そういう『金槐和歌集』がつくられて、朝幕(朝廷と幕府)関係も破綻せず、実際には京都で騒擾も起こらず、そして鎌倉では和田勢が滅んで、北条義時が侍所の別当も兼ねよ、と実朝に言われて、侍所の別当も兼任するようになる。ここで結局、有力御家人たちの権力闘争は終息するかたちになるのです。
そのうえに後鳥羽上皇ともつながりの深い将軍の実朝がいる。彼が親裁を行う。政所で政策が立案される。これは、年号でいうと建保2(1214)年から、そういう幕府の体制ができて、しばらく幕府政治は安定するのです。本当にそれで安定して、大きな事件は何も起きません。
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