はじめに-泉親衡の乱とはどんな事件だったのか

「泉親衡の乱」は、建保元年(1213)源頼家の遺児を将軍に擁立する計画が発覚し、加担者が逮捕・処罰された事件です。執権・義時を打倒しようとしたこの出来事は、首謀者である信濃源氏の泉親衡(いずみちかひら)の名がつけられました。では「泉親衡の乱」は、具体的にどのようにして起こったのでしょうか。

目次
はじめに-泉親衡の乱とはどんな事件だったのか
泉親衡の乱はなぜ起こったのか?
関わった人物たち
この政変の内容と結果
泉親衡の乱、その後
まとめ

泉親衡の乱はなぜ起こったのか?

建仁3年(1203) 2代将軍である源頼家が幽閉された後に暗殺され、北条氏によって源実朝が将軍に擁立されました。それを受けて、当時の幕府は北条氏の権力が高まり、源氏の御家人らは不満が募る状態となっていきます。

事件の首謀者である泉親衡は、信濃国を本拠とする御家人です。剛力無双を誇った人物として知られています。彼は建暦元年(1211)から、2代将軍・頼家の遺児である千手丸(せんじゅまる)を擁して、北条義時を討とうと企てていました。打倒北条氏を掲げ、密かに各地の武士に呼びかけていたのです。

親衡は、自身の郎党の弟である安念坊(あんねんぼう)という僧を使い、協力者を集めていました。しかし、建保元年(1213)2月、彼が捕まり、この企てが明るみに出たことで事態が動き出します。

関わった人物たち

泉親衡の乱に関わった、主な人物をご紹介しましょう。

泉親衡方

・泉親衡

信濃国を本拠とする御家人。北条氏の打倒を企てる。親衡には、のちに荒唐無稽な伝説が附与されたため、実像ははっきりしない。

・安念坊

親衡の郎党の弟である僧。捕らえられることで、乱の発端となる。

・和田胤長(たねなが)

侍所別当・和田義盛の甥。親衡の陰謀に、義盛の子らとともに加担した。

北条氏方

・北条義時

北条義時

2代執権。頼朝亡き後、幕府内の権力を強めたため、御家人らの不満を買っていた。

・工藤十郎

親衡を捕縛しようとするも、殺害された追手。

この政変の内容と結果

建保元年(1213)2月、御家人・千葉成胤(なりたね)の勧誘に向かった使者・安念坊が捕らえられ、計画は露顕しました。安念坊の白状に基づき、一味の者がつぎつぎと逮捕。加担者は三百人以上にのぼり、その中心人物は死刊の判決を受けました。多くの協力者らが一網打尽にされたことで、計画は失敗に終わったのでした。

しかし、首謀者である親衡自身は、捕縛にきた追手・工藤十郎らを殺害して逃亡。その強さから危機を脱し、行方をくらましました。

また、捕らえられた謀反人の一党の中には、侍所別当・和田義盛の子息である義直(よしなお)・義重(よししげ)、さらに甥の胤長(たねなが)が含まれていました。そのとき義盛は領土の上総国にいましたが、ただちに鎌倉へ走り、将軍・実朝への謁見を乞うたとされます。実朝はこれに寛大な処置を下し、息子2人を許しました。

しかし、甥の胤長だけは陰謀の張本人と目されて許されず、陸奥国の岩瀬郡鏡沼(=現在の福島県岩瀬郡鏡石町)に配流されました。鎌倉にある胤長の屋敷は、義盛の願いで一族に下げ渡されましたが、間もなく没収され、義時が拝領してしまいました。義時のこの行動は、屋敷地は一族に給付されるという当時の慣習に反したものでした。

縛られたままの甥を引き渡され、その領地さえも没収された義盛は、大いに面目を潰される形となりました。これを受けて、義盛は「和田合戦」を起こすことになるのです。胤長配流からの義時の一連の行動は、和田一族をあえて挑発し乱を起こさせて討伐するという企てとして理解されます。一方、実は義盛自身が親衡の計画の中心人物だった、という説も。その真意は明らかにされていません。

泉親衡の乱、その後。次ページに続きます

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