はじめに-三浦義村とはどんな人物だったのか
三浦義村(よしむら)は、三浦義澄(よしずみ)を父に持つ、鎌倉前期の武将です。父とともに平氏追討に武功をあげ、鎌倉幕府内で重きをなしました。和田義盛の挙兵や、承久の乱では北条氏を助けたことで信任され、評定衆にも選ばれます。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、若いながら冷静沈着で、父・義澄からも頼りにされる知恵者。義時の生涯の盟友(演:山本耕史)として描かれます。
目次
はじめに-三浦義村とはどんな人物だったのか
三浦義村が生きた時代
三浦義村の足跡と主な出来事
まとめ
三浦義村が生きた時代
三浦義村の生きた時代は、源平の戦い、鎌倉幕府の成立、御家人らの権力闘争が行われた時期と重なります。その中で有力御家人・三浦氏に生まれた義村は、数々の戦いに参加しました。また、頼朝亡き後、幕府の中枢となった北条氏と密接に結びつき、幕府内での政治的地位を高めていきます。
三浦義村の足跡と主な出来事
三浦義村は、生年は不詳で、延応元年(1239)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
三浦義澄の子として生まれる
三浦義村は、三浦義澄の嫡男として生まれ、母は伊東祐親(すけちか)の娘にあたります。父・義澄は、源頼朝の挙兵に初期から加わった、相模国(=現在の神奈川県)の武将です。「壇ノ浦の戦い」や「奥州征伐」など、各地に転戦して鎌倉幕府の成立に尽力したことから「十三人の合議制」の一人として選ばれています。
その子であり、幼名を「平六(へいろく)」とする義村は、生年を始め、幼少期についてあまり明らかにされていません。ただ、元暦元年(1184)と翌文治元年(1185)の「平氏追討」や、文治5年(1189)の「奥州征伐」に従うなど、父とともに若くして各地に転戦したことで知られています。
建久元年(1190)頼朝が上洛したときは、父の功によって宮中の警備をする役・右兵衛尉(うひょうえのじょう)に任じられました。のちに左衛門尉に転じ、さらに駿河守となり正五位下に叙せられたとされます。
権力闘争の中で実力を発揮
正治元年(1199)1月に源頼朝が没すると、嫡男・源頼家が2代将軍となりますが、鎌倉幕府内部では御家人らの権力闘争が目立つようになります。そのなかで、たびたび重要な役割を果たしたのが三浦義村でした。
正治元年(1199)12月の「梶原景時の乱」では、讒言に苦しむ朋友の結城朝光(ともみつ)を助けるため、他の御家人たちの談合を画策しました。義村は、御家人66名による梶原景時の糾弾状を作成し、梶原一族を退けるという政治的手腕をみせます。ここから、三浦氏が北条氏につぐ大豪族として幕政での重要な地位を占めたことがうかがえます。
そして、建仁2年(1202)には、自身の娘を北条泰時(やすとき)に嫁がせて、北条氏との関係を固め、さらに勢威を強めました。
「畠山重忠の乱」が起こった元久2年(1205)には、北条時政の命により義時とともに畠山重忠を討滅。その後、この事件は牧の方が時政に讒訴(ざんそ)したためであり、畠山氏に叛意のなかったことが判明すると、義村は事件の関係者らを鎌倉の経師谷(きょうじがやつ=現在の鎌倉市材木座)で討ったのでした。
また、同年閏7月、将軍・実朝を廃して平賀朝雅を擁立しようとした牧の方の陰謀(平賀朝雅の乱)が発覚したときには、義村は北条政子・義時に協力して実朝の安全を守ります。この事件がきっかけで執権・時政は落飾して伊豆に隠退し、義時が執権となったのでした。
【一族に背き、義時の味方をする。次ページに続きます】