泉親衡の乱、その後
度重なる恥辱を受けた和田義盛は、義時への反逆のため、建保元年(1213)5月2日に挙兵しました(「和田合戦」)。ただ、この挙兵に際し、同盟を結んでいたはずの三浦義村が寝返り、義時の屋敷へ向かい挙兵を知らせてしまいます。そして和田勢は、地方からの同志の到着を待たず、150騎をもってにわかに蜂起。その攻撃は鋭く、御所に火を放つと、たちまち多くの建物を焼きました。武勇で鳴らした和田勢の戦いぶりは果敢だったとされます。
しかし対する幕府側も兵力を増強していき、和田勢はしだいに後退し、由比ヶ浜に追い詰められていきました。翌日、相模・武蔵の同盟軍が到着したことにより、和田勢は三千騎に勢力を盛り返して、再び幕府勢と衝突。しかし、次々と増援が加わった幕府軍が、義盛および義盛の子・義直を討ち取り「和田合戦」は終結を迎えました。
この戦いを終え、義時は従来の政所別当に合わせて義盛の保持していた侍所別当をも兼任し、幕政の実質的主宰者としての地位を強化しました。このことから「和田合戦」は、執権政治が確立するきっかけとなった戦いとも考えられています。そして、その「和田合戦」の誘因となったのが、今回ご紹介した「泉親衡の乱」でした。
なお、和田一族の滅亡により、「泉親衡の乱」を受けて配流されていた胤長もまた、同年5月、配所で誅殺されています。
また、親衡によって将軍として擁立された頼家の子・千寿丸は、乱の後、臨済宗の僧・明庵(みょうあん)栄西のもとで出家させられていました。「栄実(えいじつ)」と名乗った彼のもとに、「和田合戦」の残党が集まったとされます。その後、彼らは六波羅探題を襲おうとするも在京御家人に襲撃され、失敗。建保2年(1214)11月、栄実はわずか14歳で自殺したのでした。
まとめ
御家人・泉親衡が執権・義時を打倒しようとした企てが露顕し、多くの逮捕者を出した「泉親衡の乱」。三百人あまりの協力者がいたことから、時の執権・義時へ不信感を抱いていた人物が少なくなかったことがうかがえます。そして、この事件が誘因となった「和田合戦」により和田氏は滅亡し、北条氏への権力集中は一層強まっていくのでした。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)