夫の死後、出家
夫婦生活が約14年続いた承久元年(1219)、夫・実朝は頼家の子・公暁によって暗殺され、28年の短い生涯を閉じたのでした。実朝は側室を置いていなかった(もしくは側室はいたけど子供が出来なかった)とされ、跡継ぎのいない状態での実朝の死は、源氏の血筋の断絶を意味します。
夫を失ったのち千世は出家し、本覚尼(ほんがくに)と号して帰京します。その後、承応元年(1222)に京都にて「遍照心院(へんじょうしんいん)」という寺を建て、夫の冥福を祈りました。そこは「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母・北条政子も大いにこの寺を援助したと言われています。後に『十六夜日記』の著者である女流歌人・阿仏尼(あぶつに)が入寺し、亡夫・藤原為家(ためいえ)を供養したのもこの寺でした。
遍照心院は「大通寺(だいつうじ)」となって現存しており、本堂の本尊左脇には、等身大の源実朝像が正坐しています。
没する
また、「承久の乱」では兄の坊門忠信(ただのぶ)と忠清(ただきよ)が朝廷方に味方して処罰される際に、千世が助命嘆願を行ったとされています。この助命嘆願によって、兄らは死罪を免れました。ただ、その後の千世の動向は明らかにされていません。そして、夫の死後から半世紀が経った、文永11年(1274)9月18日、82歳で亡くなりました。
朝廷に仕える家系
千世の父・信清は、後鳥羽天皇の側近として仕えました。長女・千世は将軍の正室に、次女・坊門局(ぼうもんのつぼね)は後鳥羽上皇の後宮になったことから、朝廷・幕府の双方にかかわりをもって権勢を得たとされます。
また、千世の妹である坊門局は、後鳥羽上皇の後宮に入り、道助(どうじょ)入道親王、頼仁(よりひと)親王、嘉陽門院(かようもんいん)を生みました。「承久の乱」で後鳥羽上皇が隠岐に流されると、彼女もそれに従います。そして延応元年(1239)、後鳥羽上皇が没すると、夫を失った坊門局は、姉と同じく京都に帰ったのでした。
まとめ
公卿の娘に生まれ、若き将軍に嫁いだ「千世」。二人の婚姻には公武融合という思惑が根底にありましたが、その夫婦生活は円満だったとされます。そして、彼らが子どもに恵まれなかったことは、その後の歴史へ確かな影響を与えました。源氏将軍が終わり、時代は本格的な執権政治へと移り変わっていったのです。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)