実務面でも北条氏を支える

元仁元年(1224)、最初の武家法典である「御成敗式目」制定にも奉行として関わるなど、3代執権・泰時を実務面で支えました。文暦元年(1234)8月には尾藤景綱(かげつな)に代わり、家令(家の事務を総括する役割)に任じられています。

仁治3年(1242)に泰時が亡くなった後も、4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼兄弟の時代まで在職しました。安堵(あんど)状などの奉者・使者として活躍したとされ、北条氏を支え続けたことがうかがえます。

途中、泰時死去の折に出家。その後の詳細は不明ですが、『吾妻鏡』によると建長2年(1250)3月には既に死亡していることが知られています。

長崎氏の祖となる

盛綱が、伊豆国田方郡長崎郷(=現在の静岡県田方郡韮山町)を領して「長崎」を称したことから「長崎氏」が生まれます。長崎氏は、鎌倉時代の北条氏嫡流(得宗)の有力被官家として続いていきました。

盛綱の子・頼綱(よりつな)は、続く時宗(ときむね)・貞時(さだとき)の家令として、その権勢を極めます。弘安8年(1285)には、貞時の外戚でもある幕府御家人の最有力者・安達泰盛(やすもり)を謀殺(「弘安合戦」)。しかしその専権は長くは続かず、永仁元年(1293)に貞時の討手によって殺されました。

代わって、頼綱の弟(一説には甥)・長崎光綱(みつつな)の子孫が台頭します。光綱の子・高綱(円喜)は執権・北条高時の家令(内管領)となり、高時の政治的無関心に乗じて権力を集中。その跡を継いだ高資(たかすけ)も執権をしのぐ権勢を誇り、執権人事を専断しました。

奥州安東氏の所領相論に際しては、高資が双方から賄賂を取るなど、その政治は御家人の不満と離叛を招くものでした。そして元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府滅亡に際して、長崎高綱・高資・高重3代は、北条氏一門とともに鎌倉の東勝寺で自刃。こうして、盛綱に始まる長崎氏は滅亡を迎えたのでした。

まとめ

北条氏に仕え、3代執権・北条泰時の腹心であった平盛綱。泰時亡き後も、4代執権・経時、5代執権・時頼と、時の執権に仕え続けたのでした。まさに影から北条氏を支えた人物といえるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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