はじめに-八田知家とはどんな人物だったのか
八田知家(はったともいえ)は、十三人の合議制のメンバーとして名を連ねていますが、その活躍や人となりはよくわかっていません。謎が多い人物ですが、いくつかわかっているエピソードから、頼朝の信頼を得ていたことが伝わってきます。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、果たして知家(演:市原隼人)がどのように描かれるのか楽しみですね。
⽬次
はじめに─八田知家とはどんな人物だったのか
八田知家が生きた時代
八田知家の足跡と主な出来事
まとめ
八田知家が生きた時代
知家は、生年だけでなく、没年もよくわかっていません。保元元年(1156)に勃発した保元の乱では、源義朝に従って戦っていたとされているため、この頃には知家は元服していたと考えられます。
八田知家の足跡と主な出来事
知家は、これといって大きな手柄をあげていないため、記録が少ないのですが、その分細かなエピソードが残されています。早速、知家の足跡を辿っていきましょう。
宇都宮宗綱の子として生まれる
知家は、藤原北家の血を引く宇都宮氏の出身です。現在の茨城県筑西市八田にあたる常陸国新治郡八田を本拠地としたために八田氏を名乗るようになりました。
保元の乱で源義朝に従い、戦ったとされる
保元元年(1156)に起こった保元の乱を知っていますか? 保元の乱は、平安時代末期に起こった内乱です。鳥羽院が亡くなった後、政治の主導権を巡って起こされました。
皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇が対立し、摂関家では藤原道長と藤原の忠通が激しく対立。崇徳上皇と藤原頼長は源為義・平忠正らと組み、後白河天皇と忠通は源義朝・平清盛らと組んで戦いました。
結果、崇徳上皇側が敗れ、讃岐国へ配流となります。このとき、知家は義朝に従ったとされているため、ここでの功績が認められて出世していったことが推測されます。
野木宮合戦に参戦する
保元の乱以降、知家に関する記録はしばらく見受けられなくなります。保元の乱以降、知家が参加したことがわかっている戦いは、寿永2年(1183)の野木宮合戦です。
野木宮合戦とは、源頼朝の叔父にあたる志田義広と、知家を含む関東の武士たちが、現在の栃木県付近の野木宮で衝突した戦いを指します。
知家は、小山朝政という頼朝に属した武将とともに、義広と闘って勝利。具体的な功績は挙げられていないものの、保元の乱や野木宮合戦を生き延び、勝利を収めているところを見ると、武術に長けていたのかもしれません。
平家討伐のため、源範頼に従い西へ向かう
野木宮合戦の後も、具体的な知家の活躍や行動はよくわかっていません。しかし、元暦元年の8月には、頼朝の弟である範頼に従って平家討伐に向かっていたようです。道中の様子や会話の記録も残っていないため、ここでも知家の人柄を知ることは難しく、謎が深まります。
常陸国の守護に任命される
文治元年(1185)には、常陸国の守護に任命されています。この時、知家は小田城を築城したとされており、遺構が今でも残っているようです。昭和10年(1935)に国の指定史跡になりました。
頼朝が従二位の直衣を着る儀式に参加する
大きな出来事ではありませんが、文治2年(1186)、知家は、頼朝が従二位の直衣に初めて袖を通す儀式に参加していたようです。
他にも、検非違使の宿舎に知家の家が指定されたり、儀式の際に頼朝のお供として付き添っていたりと、日常的に頼朝の側近として登場していることから、頼朝との信頼関係が築かれていたことが伝わってきます。
また、様々な儀式や宴にも参加していたことから、教養のあった人物だと窺い知ることができます。
知家、奥州藤原氏の討伐軍に加わる
文治5年(1189)、幕府はいよいよ、奥州藤原氏を討つために動き出します。知家は、大将軍に任ぜられ、千葉常胤とともに、東海道方面の軍を任せられることとなりました。残念ながら、奥州藤原氏討伐の際も、具体的な行動や発言、功績といった記録は残されていません。
頼朝上洛の際、遅刻をしてしまうも機転を利かせる
これまで、知家の人柄が分かるような具体的な記録があまりなかったのですが、建久元年(1190)の記録の中に知家の不祥事に関する記録があります。
なんと知家は、頼朝が京都へ向かうという大事な日に遅刻をしてしまったのです。ところが、知家は「体調が悪かったので遅れてしまった」とあっけらかんに言い放ったとされています。
加えて、頼朝が乗る予定の馬を、自分が用意した馬の方が良いと勧めて変えさせたというのです。肝が据わっていて、恐れしらずな人物だったのかもしれません。
頼朝に仕える多気義幹を計略に嵌める
今までの記録から、行動が読みにくい不思議な人物像が浮かび上がってきましたね。具体的な内容に欠ける知家ですが、建久4年(1193)には大きな動きがあります。
知家が、常陸大掾である多気義幹(たけよしもと)を謀略で嵌めてしまうのです。
後に「曽我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件が起こったことと関係しています。頼朝が不在の際に御家人である工藤祐経が、曽我祐成・時致に殺されてしまうという事件です。知家はこの真偽を確かめようと、鎌倉へ向かおうとします。
しかし、知家は、自分が不在の間に多気に行動を起こされては困ると警戒。そこで、知家は、「曽我兄弟の仇討ちの混乱に乗じて多気が謀反を起こそうとしている」ように見せかける細工をして頼朝に報告。
結果、多気は領地を没収されてしまいました。
知家のその後
建久10年(1199)に頼朝が亡くなり、幕府は、「13人の合議制」によって政治を執り行おうとします。その13人の中に知家も含まれるのですが、以降の知家に関する具体的な記録はあまりありません。
知家が亡くなった年も曖昧で、建保6年(1218)に亡くなったとされる説もあるようですが、未だにわかっていません。
まとめ
知家は、記録が残っていないためわかっていないことが多く、ミステリアスな人物であるようです。しかし、エピソードを振り返ってみると、目立った武勲はないものの、儀式の作法を知っていたり、時には機転を利かせることが出来たりと、有能であったと言えるのではないでしょうか。
文/清水鳴瀬(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)