はじめに-北条朝時とはどんな人物だったのか

北条朝時(ともとき)は、北条義時の次男にあたる鎌倉時代の武将です。鎌倉東部の名越の館に住んだことから「名越(なごえ)」を称したため、「名越朝時」とも呼ばれます。承久の乱に参戦し、北陸道大将軍として朝廷軍を破りました。また、異母兄弟である執権・北条泰時(やすとき)と親密であり、幕府内では執権・連署に次ぐ地位にあったとされる人物です。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義時の次男(演:西本たける)として描かれます。

目次
はじめに-北条朝時とはどんな人物だったのか
北条朝時が生きた時代
北条朝時の足跡と主な出来事
まとめ

北条朝時が生きた時代

北条朝時が生きたのは、日本初の武家政権が成立し、数々の御家人らが幕府に仕えた鎌倉初期にあたります。中でも執権として大きな力を有したのが、北条氏でした。その中で、2代執権として活躍したのが北条義時であり、朝時は彼の次男として生を受けました。

北条朝時の足跡と主な出来事

北条朝時は、建久4年(1193年)に生まれ、寛元3年(1245)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

執権・義時の次男として生まれる

北条朝時は建久5年(1194)、北条義時の次男として生まれます。母は比企朝宗(ともむね)の娘である比奈(姫の前)。同じく義時の子であり、のちに3代執権となる泰時は、母親が八重(阿波局)であるため、異母兄にあたります。

建仁3年(1203)になると「比企氏の乱」が勃発し、父・義時と母・比奈(姫の前)は離婚してしまいます。その後、朝時は建永元年(1206)10月に、13歳で元服。その際に将軍・源実朝より忌み名を与えられ、「朝時」と名乗ったと推測されています。

女性問題を起こす

『吾妻鏡』によれば建暦2年(1212)5月、朝時が将軍・源実朝室の官女に艶書を送り、潜かに局から誘い出したことが発覚。この女性は佐渡守親康(ちかやす)の娘で、前年に京都から下ってきていたとされます。この出来事を受けて、実朝は激怒。父・義時から義絶(=肉親との関係を絶つこと)された朝時は、駿河国富士郡に下向し、蟄居(ちっきょ)したのでした。

ただ翌年の「和田合戦」の直前になると、父・義時に召し出され、乱中御所の防衛にあたります。この時、朝時は義盛の子・朝比奈義秀(よしひで)と戦い、けがを負いながらも活躍。実朝に賞されたとされます。その後、承久元年(1219)7月、遠縁にあたる公家の子・三寅(のちの藤原頼経)の鎌倉下向に供奉。このように、幕府の御家人として復帰したのでした。

承久の乱で戦う

承久3年(1221)5月の「承久の乱」が起こると、朝時は北陸道大将軍として鎌倉を進発。同年6月、越中国・般若野荘(=現在の富山県砺波市付近)で朝廷軍を討ち破り、入洛しました。この戦いでの功により、朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼ねる人物となり、名越一家は栄えます。息子である光時(みつとき)らは摂家将軍・藤原頼経に親愛され、頼経・頼嗣(よりつぐ)2代の将軍に近侍したのでした。

元仁元年(1224)6月、父・義時が没すると、朝時は大隅守護となり、あわせて5か国の守護を兼ねることとなりました。その頃、執権・義時の死を受けて、後妻であるのえ(伊賀の方)が自らの子供を執権にしようと「伊賀氏の変」を引き起こします。しかし尼将軍・北条政子が、義時の長子を執権にしようと働きかけたことで、異母兄・泰時が3代執権に就任することとなりました。

泰時ときわめて親密であったとされる朝時は、嘉禄元年(1225)9月に、越後守に任ぜられ、国務も兼ねました。他にもいくつもの役職を担い、幕府において、朝時は執権・連署に次ぐ地位にあったことが知られています。さらに昇進を続け、嘉禎2年(1236)9月には、評定衆に加えられます。しかし、本望ではないとしてまもなく辞退し、幕府中枢から離脱する姿勢を見せました。

出家し、没する。次ページに続きます

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