出家し、没する
その後の仁治2年(1241)、朝時は出家して「生西(しょうさい)」と号したといいます。翌年には、執権・泰時が死去。ここから、執権家と名越氏とは次第に疎隔してゆく兆があらわれました。摂家将軍・頼経の父・藤原道家は内覧の地位にあり、天皇の外戚として京都の政界に大きな力を持っていました。さらに頼経自身の在職もすでに20年近くなり、鎌倉にも一つの勢力を築き上げていました。名越氏は、その勢力の代表のごとく見られていたのです。
特に泰時の跡を継いだ経時(つねとき)が、病のため執権職を弟・時頼(ときより)に譲るや、彼は将軍・頼経一派に対する疑惑を深めます。このことは執権家・名越氏両勢力の間の緊張状態を高めることを意味しました。
あたかもこの頃、寛元3年(1245)4月6日、朝時は53歳で没したのでした。朝時は信濃の善光寺の信仰が深く、同寺の修営に尽くすように子息に遺言しました。死後、子息たちは遺言を守ってこれを造営し、盛んな供養を行なったと伝えられています。
その後の名越氏
朝時死去の翌年、長男である光時は、前将軍・頼経とともに、執権・北条時頼を除こうと謀ります。この陰謀が露顕すると、時頼は名越家一族およびその一派を罰して、一挙にその勢力を倒しました。光時は出家し、時頼に陳謝の意を表しましたが、伊豆に配流され、越後守その他のおもな所帯の職を収公されたのでした。この反乱未遂事件は「宮騒動」と呼ばれ、これを契機に前将軍・頼経は鎌倉を追われてしまいます。
また文永9年(1272)、時頼の子・時宗(ときむね)が8代執権を務めた頃、時宗の異母兄で六波羅南方として京都にいた時輔(ときすけ)が謀反を企てます。朝時の子である時章・教時兄弟は彼と結び、執権・時宗を除こうとしますが、逆に討たれて殺されたのでした(「二月騒動」)。
こうした謀反から、名越氏が執権家の反対勢力となっていったことがうかがえます。
まとめ
執権の子として生まれ、女性問題というスキャンダラスな側面や合戦での武勇などが目立つ「北条(名越)朝時」。自らが執権の座に就くことはありませんでしたが、幕府内で高い地位を持っていました。しかし、その後の名越氏と執権家の関係をみると、同じ一族内での家同士の対立意識の高さというものも顔をのぞかせるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)