文/鈴木拓也

「宵越しの銭は持たない」―その日に稼いだお金は、その日のうちに使い切ってしまう、江戸っ子の気性を表した言葉だ。

ところで彼らは、いったい何に使ってしまうのだろうか?

実は、食費や家賃など削るわけにはいかない生活費を引いて残ったお金は、主に「娯楽・遊興」に注ぎ込まれたという。
そう指摘するのは、歴史家の安藤優一郎さんだ。

安藤さんは、著書『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)のなかで、江戸の市井に生きた庶民の娯楽事情を活写する。「豪遊」できるほどの所得はない彼らは、どんな娯楽に興じたのであろうか。その一端を本書より紹介する。

身を持ち崩す人まで出た非合法の宝くじ

江戸時代には、寺社の堂宇の修復・再建に必要な費用を集める名目で、「富突」「御免富」と呼ばれる制度があった。

今でいう宝くじだが、これは、番号の書かれた細長い木の札(富札)を箱に入れ、箱にあいた小穴から錐を突いて、それに刺さった富札が当たりとなる仕組み。最高額の当選金は、「一の富」と呼ばれ、百両から千両まで結構幅があった。現在の貨幣価値に換算すれば、一千万円を超え、庶民の射幸心をくすぐった。

一攫千金を狙う庶民と整備資金が欲しい寺社のニーズがマッチして、一時は年間45か所で催行されたという。

当然ながらというべきか、人気に便乗して「影富」と呼ばれる非合法の賭博が横行した。これは、江戸の三富(感応寺、湯島天神、目黒不動の御免富)の一の富の当たり番号を予想するというもの。こちらは1枚1~2銭で買えて、当たれば数倍から数十倍以上の当選金が手に入った。正規の富札は、今の貨幣価値にすれば1枚あたり数千円にもなり、さらに転売で吊り上がって、庶民には高嶺の花となっていたから無理もない。

しかし、影富に熱中して身代を潰す者が続出し、ついに幕府が御免富を全面禁止にする。天保改革の真っ只中の1842年のことであった。

歌舞伎よりはるかにリーズナブルに楽しめた寄席が大人気

江戸っ子が日常的に楽しめた芸能に「寄席」があった。

現代では、寄席といえば落語のイメージが強いが、当時はそれに加え、講談、浄瑠璃、浪花節、手品、音曲などバラエティに富んでいた。最盛期には、江戸の町だけでも寄席の数は7百軒にも達したという。
これほど寄席が人気だったのは、歌舞伎よりも入場料はずっと安かったというのが理由の1つに挙げられる。これについて安藤さんは、次のように解説する。

出演する芸人や演目により当然異なるが、銭十六文から二十八文が相場である。かけ蕎麦一杯十六文の代金を少し上回るくらいであり、懐の寂しい江戸庶民でも手軽に楽しめる娯楽だったことが確認できる。
実際には下足札代(四文)や座布団代・煙草盆代(各四文)を別に払うことになるが、それでも四十文ほどである。江戸三座の芝居小屋で歌舞伎を見物するとなると、桟敷席では最低一両二分掛かってしまう。一両が公定相場の四千文とすると六千文であるから、寄席の入場料は歌舞伎の百五十分の一の計算となる。(本書より)

この時代の寄席も、今と同様に昼夜二部制で興行されていた。それでも、満員御礼となるほど好評だったのである。

このフィーバーぶりを、お上はどう見ていたのであろうか?

安藤さんによれば、江戸の治安を預かる町奉行所は、前向きに見ていたという。一つには、経済への波及効果があるが、二つめには、寄席を楽しめることがガス抜きになり、悪事に手を染めることもない。そういう防犯的な面から、寄席を評価していたのである。

それを全否定したのが、天保改革を推し進めた老中・水野忠邦である。当初は、寺社境内の22軒を除いた全部、つまり211軒の寄席を廃止する案を、町奉行の遠山金四郎景元に諮問している。

しかし、この案に遠山は、反対の答申を返す。これを受けて水野は、江戸市中での寄席の数を多くて十数か所に制限し、演目も絞り、芸人に限らず女性の出入りを禁ずるよう命ずる。遠山もこれには妥協を余儀なくされ、寄席はいきなり9割削減されるのである。

しかし2年後の1843年、水野は、江戸・大坂周辺の大名領・旗本領を取り上げて幕府領に組み込む上知令を発したが、関係者の猛反発を受けて、失脚。天保改革は終わりを告げる。その反動であろうか、寄席は700軒に激増した。江戸っ子は再び、寄席の楽しみを心ゆくまで謳歌できるようになった。

江戸詰藩士まで熱狂した江戸の祭り

江戸の人々の非日常的な楽しみとして忘れてはならないのが、祭りだ。
現代の江戸三大祭りといえば、深川祭、神田祭、山王祭を指すが、江戸時代も同じ。特に神田祭と山王祭は、「天下祭」として特別視された。その理由は、「祭礼行列が江戸城内に入ることを許され、将軍上覧の栄誉に浴した」ため。幕府は、これらの祭りに対しては、神輿を寄進し、祭礼費用の補助もしている。

幕府がここまで協力的なのには、もちろん幕府なりの思惑がある。

まず何よりも、江戸っ子に将軍との一体感を感じさせたかったのだろう。天下祭は、将軍のお膝元に住んでいることを実感させるのにまたとない機会であった。そんなプレミア感は祭礼を盛り上げる要因となり、そのぶん後援者となる将軍の威光も輝いたはずだ。(本書より)

ところで、当時の祭礼行列の特徴として、今のように神輿を中心とするものではなかったという点を、安藤さんは指摘する。つまり、神輿のほかに、山車と附祭(つけまつり)が加わる3部構成であったという。

山車は、神の依り代(よりしろ)の役割を担い、作り物や人形といった飾り物がついた屋台に車輪を付け、牛が引くスタイルが一般的であったという。一方、附祭は、踊り屋台、地走り踊り、練り物からなる。踊り屋台は、踊り手を乗せながら移動する舞台で、地走り踊りは歩きながら踊る人たちのこと。そして練り物は、巨大な造り物を仕立て、仮装した人々が一緒に練り歩くものだった。附祭は、宗教性のない「余興」であったが、いかに趣向を凝らした出し物にするか、情熱と資金が注ぎ込まれたそうだ。

幕府の補助があったとはいえ、衣裳などは自弁なので、「懐の寂しい江戸っ子のなかには、窮するあまり、自分の妻や娘を芸者や遊女(「妓」)に売ってまで衣裳を整えた事例が多かった」というから、尋常ではないのめり込みのほどがうかがえる。

ちなみに、祭りの日は、江戸詰の藩士は外出を禁じられた。祭礼では喧嘩がつきもので、こうしたトラブルに巻き込まれるのを防ぐためである。しかし、屋敷の外に住んでいる藩医に診てもらう名目で、仮病を使って外出し、祭りを見物する者が後を絶たなかったという。どれだけ祭りが見ものであったか、わかるエピソードであろう。

* * *

ここでは触れなかったが、本書ではほかにグルメ、賭け事、色街、開帳なども扱われ、泰平の世を明るく生きた江戸の民の一面を理解することができる。興味のある方は一読されたい。

【今日の教養を高める1冊】
『大江戸の娯楽裏事情』

安藤優一郎著
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文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。

 

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