文・絵/牧野良幸
女優の野村昭子さんが亡くなった。野村昭子さんは存在感のある俳優として長年テレビドラマや映画に出演してきた。誰もが野村さんのにこやかなお顔を覚えているだろう。
テレビドラマでは『家政婦は見た!』や『渡る世間は鬼ばかり』などが有名だ。映画なら黒澤明監督の『赤ひげ』などがあるが、今回は豊田四郎監督の『恍惚の人』を取り上げてみたい。野村昭子さんは明るく温かみのある老人福祉関係の人を演じている。
『恍惚の人』は1973年(昭和48年)に公開された映画だ。監督は文芸作品の映画化で名作を残した豊田四郎。
映画は前年に出版された有吉佐和子の小説が原作である。小説は老人の認知症を正面から取り上げベストセラーとなった。これで老人の認知症が広く社会に認知された。その時僕は中学生だったが、僕もこれで認知症というものを知ってびっくりした覚えがある。“恍惚の人”という言葉は流行語にもなったと思う。
立花茂造(森繁久彌)はある日、妻の突然の死をきっかけに認知症となってしまう。近所を徘徊したり、鍋の中の煮物を手づかみで全部平らげてしまうなど、奇妙な行動が多くなった。
茂造は息子の信利(田村高廣)を見ても誰だかわからない。地方から駆けつけてきた娘の京子(乙羽信子)には、
「私の娘は、あなたみたいな年寄りじゃありません」
と言う。血のつながった息子や娘、孫がわからないのだ。茂造がわかるのは息子の嫁である昭子(高峰秀子)だけだった。昭子は嫁に来てから茂造にはイビられてばかりだったのだから、皮肉なものである。
「昭子さん、昭子さん」
茂造は何かあると昭子を呼ぶから、夜中でも起こされた。排泄はトイレでは間に合わないので、庭に出て茂造を後ろから支えて放尿させる。
「ああ出ました。昭子さん、月が奇麗ですねえ」
森繁久彌は「知床旅情」のヒットで有名な俳優だが、もともとは名コメディアンだけあって演技が秀逸である。
昭子役は高峰秀子。50年代から60年代に出演した成瀬巳喜男監督の映画と違って、70年代ファッションが新鮮だが、不満を言いながらも義父の世話をする姿は生々しい。昭子は昼間は勤め、家に帰ったら家事をし、茂造の世話をした。
昭子に比べると男はかなり頼りない。精神的に弱いと言うべきか。実の息子の信利は、父親の認知症を前にして、自分もオヤジみたいにボケるのかという心配の方が先である。会社の後は麻雀で気を紛らす。
孫の敏(市川泉)にいたっては受験を控えた高校生だから茂造を見る目はドライだ。昭子を助けて介護の手伝いをするだけ感心ではあるが。
昭子の心労は大変なものだった。茂造を老人クラブに入れても他の老人とうまくいかない。そのうちに徘徊も遠くまで行くようになった。敏が追いかけるが携帯電話がない昭和40年代だ、ようやく公衆電話から家に電話をしてきて、昭子がタクシーで二人を探しに出た。くたくたになって茂造を家に連れ戻した昭子であった。
そんななか昭子の家に老人福祉指導主事の笈川がやってくる。それが野村昭子の役どころである(偶然だが高峰秀子が演じる昭子は同じ名前)。
老人福祉指導主事というのは、地域の福祉事務所にいる老人保護の相談にのってくれる人らしい。硬い肩書に似ず笈川は庶民的で人懐っこい中年女性である。
笈川は昭子に自己紹介するや、茂造のところに行き明るく話しかける。
「はい、おじいちゃん、お肩の体操しましょう。トン、トン、トン」
「昭子さん、誰ですかこの人は?」
「お客さまですよ、おじいちゃんの」
「この人は妙なことばかりさせますよ」
ビシャ。茂造は襖を閉めて閉じこもってしまった。
「いやあ、しっかりしてらっしゃいますねえ」
笑う笈川。こんなやりとりを読んだだけでも野村昭子の演技が目に浮かぶだろう。
笈川は縁側に座ると、昭子に特別養護老人ホームの説明をする。しかし徘徊をする老人は手が足りないため受け入れが難しいことを伝える。
「それじゃあ、私はどうなるのでしょう?」思わず昭子は声を張り上げた。
「老人ホームでも引き取らない老人を、私一人が面倒を見るんでしょうか!」
最後は、二人とも黙ってしまうしかなかった。
このあと大学生夫婦が昭子の家の離れを借りることで、映画は起承転結の「転」となる。昭子しか認識しなかった茂造が、女子大生のエミ(篠ヒロコ)になつくのだった。実際映画を見ている僕にもエミの若さが眩しい。
そして映画は「結」を迎える。昭子が買い物をしている間に、茂造は外に飛び出す。雨の中をびしょ濡れで徘徊する茂造。ようやく昭子は倒れている茂造を見つけた。
「ごめんね、ごめんね、おじいちゃん!」
次のシーンは茂造の葬儀である。茂造は亡くなった。
映画が話題になった時、正直に言って、まだ若い僕は“恍惚の人”という言い方を面白がっていただけで、老人問題は他人事だった。映画の中の敏と同じである。
あれから約50年たち僕も還暦を過ぎた。今では介護に心身ともに疲れる昭子に共感し、自分も将来こうなるのだろうかと不安になる信利にも共感する。そういう年齢になったのだ。映画は歳を取らないが人間は歳を取る。『恍惚の人』は見る人の年齢、立場、世代の違いによって異なる共感を呼ぶ映画であろう。
そんな中で野村昭子の演じた笈川は、清涼剤のようにこの映画にいっときの明るさをもたらす。いつ誰が見ても野村昭子の親しみやすさは変わらない。存在感のある俳優がまた一人いなくなったことが惜しまれる。
【今日の面白すぎる日本映画】
『恍惚の人』
1973年
上映時間:102分(モノクロ)
監督:豊田四郎
原作:有吉佐和子『恍惚の人』
脚本:松山善三
出演:森繁久彌、 高峰秀子、田村高廣、市川泉、 小野松江、篠ヒロコ、乙羽信子、 浦辺粂子、野村昭子、ほか
音楽:佐藤勝
一
文・絵/牧野良幸
1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。著書に『僕の音盤青春記』 『少年マッキー 僕の昭和少年記 1958-1970』、『オーディオ小僧のアナログ放浪記』などがある。ホームページ http://mackie.jp