ライターI(以下I):富士の巻狩りで発生した事件が実は、背後で源範頼(演・迫田孝也)擁立計画があったのではないかという疑惑が今週も尾を引いています。
編集者A(以下A):これまで地味な扱いしかされなかった範頼に光があたるのは素晴らしいことです。疑惑を向けられた範頼は起請文を提出しますが、その際の署名が「源範頼」と「源」姓だったことを咎められます。ほんとうに言いがかりで不憫でなりません。
I:この件は『吾妻鏡』にも記されているので実際にこういうやり取りがあったのでしょう。いずれにしても範頼は修善寺に幽閉されることになりました。
A:劇中で「源」問題を指摘したのが大江広元(演・栗原英雄)ということで、『吾妻鏡』の記述とは少し異なるわけですが、敢えて、広元にその役割を担わせていることで、広元子孫の毛利元就を想起させられました。
I:元就といえば、権謀術数、計略・謀略のかたまりのような戦国武将。だからそういうことをいうのですよね?
A:なにはともあれ、兄の挙兵後に鎌倉に集った頼朝(演・大泉洋)兄弟のうち、義円(演・成河)は合戦で討ち死にし、義経(演・菅田将暉)は奥州平泉で討たれました。そして、今また範頼が幽閉される。「鎌倉の秩序」を守るために兄弟に強いられた犠牲はあまりにも大きいですね。ちなみに起請文といえば、牛王宝印(ごおうほういん)というイメージがありますが、それは鎌倉時代の終わりごろに普及してますから、範頼の時代はあんな感じだったのでしょう。
I:頼朝の兄弟、残りは全成(演・新納慎也)のみになりましたね。
丹後局への進物は「砂金300両」……。
I:さて、範頼が修善寺に幽閉され、さらに鎌倉では旗揚げ以来の功臣・岡崎義実(演・たかお鷹)が出家しました。
A:岡崎義実が計画の黒幕だったというストーリーは1979年の『草燃える』でも採用されていました。出家で許されたのは、やはり挙兵当時の功績と石橋山で嫡男が討ち死にしていることを考慮された温情なのでしょう。
I:第21話では上洛した頼朝が後白河院(演・西田敏行)と面会するシーンがありましたが、今回、頼朝が再度上洛することになりました。この時は、政子(演・小池栄子)、万寿(演・金子大地)、大姫(演・南沙良)など「将軍家の家族旅行」でもありました。もちろん主要な課題は、大姫の入内問題。
A:頼朝は〈方々にたんまり土産を渡した。これで万事うまくいく〉といっていましたが、丹後局(演・鈴木京香)が政子、大姫と面会して、〈しょせん東夷(あずまえびす)の娘〉とか、強烈な嫌味をぶちかましてきました。『吾妻鏡』にはこの時「銀であつらえた蒔箱に300両の砂金を入れて贈り、さらに台の上を白綾(白絹の綾織物)30端で飾った」と丹後局への進物について記しています。
I:豪勢ですねえ。5年前の上洛の際に丹後局に贈った進物からバージョンアップしています。でも前回は後白河院にも大量の進物を贈っていますから、トータルでは前回より少ない! というアピールだったんでしょうか(笑)。
A:「それだけ贈り物をもらいながら、あの態度?」と感じるか、「田舎者はあの程度の扱いで充分」と感じるか……。
I:(途中で引き取って)圧倒的に、「この態度ひどい」じゃないですか? もらうものはもらっておいて、ああいうことをいわれるとは、現代的な感覚からいえば、政子は怒っていいくらい。ほんとうに「THE 京都」ってひどい!
A:まあでも、あそこで怒ったらそれはそれで「田舎者」のレッテルを貼られるわけですし……(笑)。ただ、このシーンを見ていると、勅使饗応役の浅野内匠頭が指南役の吉良上野介への進物を渋ったため、粗略に扱われた末に殿中で刃傷に及んだ「忠臣蔵」のストーリーを思い出してしまいますね。
I:丹後局が劇中でいっていたように、誰々にお願い事をする際に、どのような進物を届けたら良いのか、を指南する人間が現れたりします。今でも同じようなコミュニティがあるかもしれませんね。
東大寺大仏復興
A:さて、この時の上洛は、源平合戦で清盛の息子平重衡が南都を攻撃した際に、焼亡した大仏殿の復興落慶法要参列も主要なイベントでした(大仏開眼法要は1185年)。平家による焼亡から14年、 わりとスピーディーに復興となったのは頼朝がその権威を誇示しようと、たくさん献金したことも背景にあります。ちなみに、戦国時代の1567年に松永久秀軍らの攻撃で東大寺大仏殿と大仏は2度目の焼亡を経験するわけですが、復興するまでに100年以上かかりました。大仏開眼供養が1692年、大仏殿の復興は1709年です。この時の主要スポンサーは五代将軍綱吉とその母桂昌院ですね。
I:100年以上かかったのは、豊臣秀吉が東大寺大仏の復興ではなく、京都の方広寺に大仏を造立する道を選んだから。後に「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘銘でも有名になる方広寺ですね。
A:この「国家安康」が家康の諱を割ったというので、豊臣家滅亡の要因になりますが、これもまた強烈な言いがかりでした。歴史は繰り返すというか、『吾妻鏡』を愛読して「鎌倉殿」の時代から学んだといわれる家康の狙い撃ちだったのか……。権力者からの言いがかりほど怖いものはありません。
I:「言いがかり」と「大仏復興」でなんだか歴史がシンクロしましたね。これで来年の『どうする家康』の楽しみが増えました。
A:ところで、大仏の復興に尽力した頼朝を陳和卿(ちんなけい/演・テイ龍進)が面会拒否をしたというのも『吾妻鏡』に記されています。大スポンサー頼朝に対しての態度とは思えませんが、陳和卿は頼朝からの進物の一部を突き返したそうで、もらいっぱなしの丹後局とは対応が異なります。この人も文覚上人同様怪しげな人物ではありますが、今後も鎌倉で物議を醸すことになるので引き続き注目ですね。
【範頼の刺客が善児という衝撃。次ページに続きます】