ようこそ、“好芸家”の世界へ。

「古典芸能は格式が高くてむずかしそう……」そんな思いを持った方が多いのではないだろうか。それは古典芸能そのものが持つ独特の魅力が、みなさんに伝わりきっていないからである。この連載は、明日誰かに思わず話したくなるような、古典芸能の力・技・術(すべ)などの「魅力」や「見かた」にみなさんをめぐり合わせる、そんな使命をもって綴っていこうと思う。

さあ、あなたも好事家ならぬ“好芸家”の世界への一歩を踏み出そう。

第6回目は日本舞踊の世界。華麗な扮装を纏わずに踊る「素踊り」の世界をご紹介しよう。

文/ムトウ・タロー

山川秀峰《素踊》。モデルは大正時代に興った「新舞踊運動」を展開した初代 花柳寿美(すみ、1898-1947)、曲線美や立ち居振る舞い、動きのしなやかさなど、「素踊り」だからこそ出すことのできる骨格や体型の美しさを見事に表現している。
写真提供:神奈川県立近代美術館

様々な役柄を身体ひとつで踊り分ける「素踊り」

「君は素で踊りたまえ。ぼくは素では踊らない」

これは明治・大正・昭和の歌舞伎界を牽引し、「踊りの神様」とも謳われている六世 尾上菊五郎(1885~1949)が、舞踊家・六世 藤間勘十郎(後の二世 藤間勘祖、1900~1990)に伝えた言葉である。偉大な歌舞伎俳優が舞踊家へ畏敬の念をあらわした言葉である。

「日本舞踊」とひと括りにいうが、その種類は実に多彩である。元来は歌舞伎の「舞踊もの(所作事)」を期限としたものであるが、明治以降、歌舞伎から離れ、独自の踊りのかたちを確立しようとする動きが現れて、今に至る。その中で生まれたのが「素踊り」である。

「素踊り」の「素」とは、過剰な舞台美術や化粧をせず、特別な扮装も纏わない、ということを意味する。

これは、日頃の稽古の成果を発表する場で、最後に師匠が扮装をせずに登場し、いくつかの情景を踊り分け、また素にもどって退場するという舞踊家の踊りの技量を見せる、という上演形式が基礎となっている。
藤間蘭黄(日本舞踊家)「「素踊り」が拓く藤間蘭黄の世界」を参照)。

八代目 藤間勘十郎の「柏の若葉」。六世 藤間勘十郎の孫であり、当代にして現代を代表する振付師。数多くの素踊りの会を主宰し、舞踊の普及にも努めている。
出典:紀尾井ホール/日本製鉄文化財団

男性の場合は地頭(鬘などをかぶらない、という意味)に紋付袴と白足袋を纏うのみ、女性の場合は鬘をかぶり紋付と白足袋を纏う。実に簡素な出立である。

この簡素な出立ちゆえに、「素踊り」は歌舞伎舞踊とは異なる特性を持つ。代表的な「素踊り」の曲である『北洲』でいえば、吉原の四季の風景描写の中で、太夫・遊客・酔客・幇間((ほうかん、太鼓持ち)・芸者など実に十八もの人物描写と、数多くの表現をたった一人で、踊り手の身体ひとつで踊り分ける。

歌舞伎舞踊が衣装を纏ってひとつの「役」として踊るのに対して、素で踊るために様々な役柄を一人で演じて踊る。これも「素」のかたちだからこそできる表現である。

「素踊り」は心の裏付けが重要

様々な役を一人で演じることを求められる「素踊り」。しかしただ単に、個々の役や情景に見合う踊りを身振り手振りで表現したのでは、表面的な振る舞いに終始してしまう。誰が、どこで、どのような心持ちで踊っているのか、その景色を浮かび上がらせなければ、伝えたいものが観客に伝わり切らない。そのために大事なのが「内面」への向き合い方である。

六世 菊五郎に「素で踊れ」と言われた藤間勘十郎自身も、「素踊り」には「気持ちが大切」と自著で語っている。

例えば月を見る仕草でも、手を額の辺りにあげて、月を見る仕草であれば、観客は「月を見ているのだな……」とわかる。これは踊りの中の仕草で見せる手法である。

しかし勘十郎は、「目でふっと見る」という仕草に意識を向けていた。「私の踊りは動かない、動かないって言われますけど、気持ち本位で、そうなりますと、手が少なくなって、動きがなくなっちゃうのかもしれませんね」と自身で回想している。その役の気持ちを第一に据え置く「気持ち本位」により、仕草である手足の動きさえも、過剰な装飾になってしまうほどの自然体の動きの境地に達していく。

藤間勘右衛門(四代目 尾上松緑)の「浮かれ坊主」。通常は派手な色ものの褌(ふんどし)に黒の法衣という滑稽な半裸姿で、芸を見せて物乞いをしていた願人坊主のまぜこぜ踊りを見せるが、衣装なしにその滑稽さを見せるのが舞のポイント。
出典:©前野寛幸 写真提供:紀尾井ホール/日本製鉄文化財団

六世 菊五郎から踊りの薫陶を受けた二世 尾上松緑(1913~1989)も「形だけの踊り」を戒めている。「素踊り」の必須条件は「心の裏付けがあるということ」であると語り、「素踊りは衣装を着なくていいのではなく、衣装を着た感じを知らなくてはいけない」とも述べている。

「素踊り」には、歌舞伎舞踊での華やかな衣装を纏っているかのような姿を観客に想像させることも必要になってくるのである。「気持ち」や「心」という確固たる「内面」の要素を持ち合わせていなければ、「素踊り」の意味を成さないのである。

「素踊り」を観れば舞踊家の力量が分かる

古典芸能のカテゴリーに入る芸能の多くは多様な表現方法があるが、その根底には共通する概念が存在する。それは観ている側の想像を掻き立てる、というもの。

座布団の上でひとり、口演のみで複数の人間を演じる落語、能舞台という簡素な空間にその作品世界を浮かび上がらせる能楽……。

これらは全て、余計な装飾を加えずに、その物語世界を観客個々の眼や想像の中に浮かび上がらせることを意識した芸能である。

二代目 吾妻徳穂(あずまとくほ)『賎機帯(しずはたおび)』。失った我が子を思い、隅田川の渡し場をさまよい一心に踊る歩く狂女・班女(はんじょ)の姿を表現する。
出典:吾妻徳穂

「素踊り」もまた、舞踊家たちの持つ表現力の力量によって、物語の情景や人間の心を観客の眼に浮かび上がらせることが試される。

これまでにも「素踊り」の世界に特化した公演が数多く行われている。来たる紀尾井ホールでの「素踊りの会」でも、踊り手の身体的な一挙一動の緊張感や心理的な描写、そして身体の持つ美しさを見せる「素踊り」の本質を感じとることができるだろう。

きらびやかな衣装を纏っての舞踊も華やかだが、究極のシンプルを追求した踊りもまた、醸し出される華やかさを見せてくれるものである。

文/ムトウ・タロー
文化芸術コラムニスト、東京藝術大学大学院で日本美学を専攻。これまで『ミセス』(文化出版局)で古典芸能コラムを連載、数多くの古典芸能関係者にインタビューを行う。

※本記事では、存命の人物は「〇代目」、亡くなっている人物は「〇世」と書く慣習に従っています。

 

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