文/池上信次

1950年代までのモダン・ジャズの時代、ジャズ・スタンダードの「供給源」は、多くが当時の「ヒット曲」(あるいはすでに懐メロ)であるミュージカルや映画音楽でした。その後ミュージカルの「ヒットする力」が衰えてしまうと、それらはその曲を演奏したジャズ・ミュージシャンの演奏が「再供給源」となってジャズ・スタンダードとして残ってきました。もちろん、それだけでなく、ジャズ・ミュージシャンのオリジナル曲が時を経てスタンダードとなったものなど、その後も新たなジャズ・スタンダードはたくさん生まれています。

しかし時代は変わっても、「ヒット曲」にジャズ演奏の素材を求めることは変わりません。ジャズにおいて、多くの人が知っている曲を取り上げて演奏することの重要性は変わっていないからです。昔の「ミュージカルのヒット曲」のポジションが、「ポップスのヒット曲」に変わっただけです。となれば、ミュージカルのヒット・メイカーであり、ジャズ・スタンダード供給源となっていたロジャース&ハートやコール・ポーターに相当する作曲家は、現在では誰になるのでしょうか。

これはさまざまに考えられますが、間違いなく上位に挙げられるのはスティーヴィー・ワンダーでしょう。本連載の第2回(https://serai.jp/hobby/361889)では、「必聴ジャズ・スタンダード」の1曲としてスティーヴィー作詞作曲の「イズント・シー・ラヴリー」を紹介しましたが、ジャズ・ミュージシャンがよく取り上げているスティーヴィーの曲はそれだけではありません。「マイ・シェリー・アモール」「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」「サー・デューク」「クリーピン」など、たくさんの曲がたくさんのジャズ・ミュージシャンによって「ヒット時期と関係なく」演奏され続けています。

中でも注目の曲は「アイ・キャント・ヘルプ・イット」。スティーヴィー・ワンダーが作曲し、マイケル・ジャクソンが歌って大ヒットした曲です。オリジナル・ヴァージョンは、マイケルの1979年発表『オフ・ザ・ウォール』(エピック)に収録されています。このアルバムからは4枚のシングルがカットされましたが、「アイ・キャント・ヘルプ・イット」は含まれませんでした。とはいえ、これはこれまで全世界で2千万枚(!)をセールスし、現在ではグラミー賞の殿堂入りしている名作大ヒット・アルバムです。世界でそれだけの人が知っている曲ですから、スタンダードの下地としては言うことなしですね。もちろん、ヒット曲であればなんでもいいわけではなく、その曲を「ジャズとして」いい演奏ができるかどうかがもっとも重要なことです。このアルバムには、マイケル・ジャクソンのオリジナルのほか、ポール・マッカートニーやデヴィッド・フォスターらが楽曲を提供していますが、ジャズ・ミュージシャンが取り上げたのは、スティーヴィーの「アイ・キャント・ヘルプ・イット」だけです(まあ、ほかにもないわけではないでしょうけど)。

グローヴァー・ワシントン・ジュニア『スカイラーキン』(モータウン)
演奏:グローヴァー・ワシントン・ジュニア(ソプラノ・サックス)、リチャード・ティー(キーボード)、エリック・ゲイル(ギター)、マーカス・ミラー(ベース)、アイドリース・ムハマッド(ドラムス)、ラルフ・マクドナルド(パーカッション)
録音:1979年10月
『オフ・ザ・ウォール』が79年8月リリースで、この録音が10月。超特急カヴァーです。グローヴァー最大のヒット『ワインライト』の前作で、メンバーもほとんど同じのメロウなサウンドですが、アドリブは吹きまくりで、楽曲がジャズと親和性が高いことを感じさせます。

「アイ・キャント・ヘルプ・イット」を取り上げたジャズ系ミュージシャンのアルバムを年代順に列挙します(『スティーヴィー・ワンダー曲集』は除きます)。

1)グローヴァー・ワシントン・ジュニア(ts)『スカイラーキン』(モータウン/1979年録音)
2)ジョン・クレマー(ts)『マグニフィセント・マッドネス』(ワーナー/1980年録音)
3)ジョー・パス(g)『ホワイトストーン』(パブロ/1985年発表)
4)ウィル・ダウニング(vo)『センシュアル・ジャーニー』(GRP/2002年発表)
5)ジャニス・シーゲル(vo)『ア・サウザンド・ビューティフル・シングス』(テラーク/2005年録音)
6)メイザ(・リーク)(vo)『フィール・ザ・ファイア』(シャナキー/2007年発表)
7)グレッチェン・パーラト(vo)『イン・ア・ドリーム』(オブリークサウンド/2008年録音)
8)エスペランサ・スポルディング(vo, b)『ラジオ・ミュージック・ソサイエティ』(ヘッズアップ/2011年録音)
9)ベン・パターソン(p)『エッセンシャル・エレメンツ』(マックスジャズ/2013年発表)

このほかに多くのインディーズ音源があります。日本では大野えり(vo)、TOKU(vo, flh)、ケイコ・リー(vo)らがアルバムに収録しています。

エスペランサ・スポルディング『ラジオ・ミュージック・ソサイエティ』(ヘッズアップ)
演奏:エスペランサ・スポルディング(ヴォーカル、ベース)、ジョー・ロヴァーノ(テナー・サックス)、レオ・ジェノヴェーゼ(キーボード)、リチャード・ヴォグト(ギター)、リンドン・ロシェル(ドラムス)、グレッチェン・パーラト、ベッカ・スティーヴンス、ジャスティン・ブラウン(バック・ヴォーカル)
録音:2011年
「アイ・キャント・ヘルプ・イット」は、アルバム収録12曲中のエスペランサの作曲ではない2曲のうちの1曲。このアルバムは、グラミー賞「ベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバム」を受賞しました。

わかる範囲だけでもこんなにありますから、もう立派なジャズ・スタンダードといえるでしょう。『オフ・ザ・ウォール』リリース直後にグローヴァーたちが取り上げたのは、マイケル・ジャクソンのヒットあってのことですが、21世紀になって、そのヒットを体感していない世代までもが取り上げているというのは、スタンダードとして定着したという証でしょう。

スティーヴィー・ワンダーの楽曲には、ジャズマンを惹きつける特別な魅力があるんですね。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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