NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、放送開始より幅広い世代から高い関心を得ています。登場人物の描き方については、三谷幸喜氏色が色濃く出てきて、賛否両論さまざまな意見があるようです。そうした意見が交わされていることも、今回のドラマの注目度の高さを示しているのではないでしょうか。
「サライ京都チャンネル」では、『鎌倉殿の13人』に登場する人物のゆかりの地や主な合戦地を訪ね、動画レポートをお届けします。このレポートをご高覧いただければ、ドラマをより一層楽しんでいただけることと存じます。
今回は、木曽義仲と源義経の両軍が戦った「宇治川の戦い」ゆかりの地を訪ねました。宇治川は京都防衛上の要衝にもあたり、その後の「承久の乱」でもこの地で合戦が行われました。また、この戦いで敗れた木曽義仲の最期の地を辿っております。ぜひ、お楽しみください。
はじめに-宇治川の戦いとはどんな戦いだったのか
「宇治川の戦い」は、寿永3年(1184)に起きた、木曽義仲軍と源範頼・義経軍の戦闘のことです。源平合戦が繰り広げられている最中でしたが、「宇治川の戦い」は源平の争いではなく、源氏同士の覇権争いだったといっても過言ではないでしょう。
戦いの背景や戦況、ゆかりの地について解説していきます。
宇治川の戦いはなぜ起こったのか?
寿永2年(1183)、「倶利伽羅峠の戦い」で勝利した木曽義仲は平氏一門を都落ちさせ、7月に上洛を果たします。無位無冠だった義仲は、後白河法皇から従五位下左馬頭 (さまのかみ) 兼越後守 (えちごのかみ)ついで伊予守(いよのかみ)に任じられました。しかし、上洛軍の軍紀の乱れや政治力の欠如から、京都での義仲の評価は低下。院は、源頼朝の上洛を望む空気になりました。
同じ年の10月、義仲が備中水島での平氏追討に失敗すると、院は反義仲色が露骨になります。その後、義仲は後白河法皇の御所である法住寺を襲撃。法皇を幽閉し、元暦元年(1184)独裁権を握った義仲は、征夷大将軍の任官を受けました。
一方、後白河法皇は、頼朝に助けを求めます。大義名分を得た頼朝は、弟の源範頼(のりより)・源義経を大将とする義仲追討軍を進発。範頼は瀬田へ、義経は宇治に迫りました。こうして始まったのが「宇治川の戦い」です。
宇治川の戦いの戦況と結果
義仲は宇治川に架かる橋を外して、対岸に兵を配します。しかしながら、宇治川に進軍していた義経軍はそんなことを物ともせずに激しい勢いで渡河。防衛を破られた義仲は、京都から敗走します。
義仲は追手の敵兵を斬り倒しながら逃れますが、粟津の浜(滋賀県大津市)にたどり着いたときには、味方は数騎しかいなかったと言われています。自分の最期を悟った義仲は、愛妾の巴御前に落ち延びるよう説得して別れます。
その後、義仲は粟津の浜で額を一本の矢に射抜かれ、馬上から転落。それが義仲の最期だったと伝えられています。
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「宇治川の戦い」は、鎌倉方の勝利で幕をおろしました。
木曽義仲は、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源義経の軍勢と戦い、討死をしています。享年31歳だったそうです。義仲の眠る、義仲寺は琵琶湖にほど近い静かな景勝地にあります。この地はかつて、松尾芭蕉が愛したところでもありました。「宇治川の戦い」に思いを馳せながら、訪ねてみてはいかがでしょうか。
各ゆかりの地、所在地とアクセス情報
「宇治川先陣之碑」
住所:京都府宇治市宇治塔川・府立宇治公園(中の島)
アクセス:JR奈良線「宇治」下車、徒歩約10分
「義仲寺」
住所:滋賀県大津市馬場1-5-12
アクセス:JR琵琶湖線「膳所」下車、徒歩約10分
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/410/
「粟津の晴嵐」
住所:滋賀県大津市晴嵐
アクセス:JR琵琶湖線「石山」下車、徒歩約10分
「瀬田の唐橋」
住所:滋賀県大津市唐橋町
アクセス:京阪電鉄 石山坂本線「唐橋前」下車、徒歩約5分
協力/義仲寺
企画・編集・動画/末原美裕・貝阿彌俊彦(京都メディアライン・https://kyotomedialine.com FB)