文/砂原浩太朗(小説家)
織田信長をはじめとする「三英傑」をのぞけば、武田信玄(1521~73)こそ、戦国武将の代表格といえる。お膝元の山梨県(旧国名は甲斐)ではむろんのこと、人気・知名度ともに古くから全国クラス。匹敵するのは宿敵・上杉謙信や毛利元就くらいだろう。だが、著名な武将のつねとして、彼の生涯もまた、多くのフィクションにいろどられている。「戦国最強」といわれた男の実像を見極めることは、はたして可能なのか。
聡明な若殿
武田氏は由緒ある清和源氏の家系で、新羅三郎義光(1045~1127)にまでさかのぼる。彼は八幡太郎として知られる源義家の弟だから、血筋としては申し分ない。曾孫の代にいたり、平家追討の賞として甲斐守護に任じられた。以来300年余、同族間のあらそいや国人(土着の武士)たちの分裂をおさめ、一国をまとめあげたのが信虎(1494~1574)。武田氏の本拠として有名な躑躅(つつじ)ヶ崎館を築いたのも彼であり、現在はその跡に武田神社(甲府市)が鎮座している。
信虎の嫡男が信玄である。諱(いみな。正式な名)は晴信といい、名家らしく足利12代将軍・義晴から一字をたまわったもの。信玄は出家(1559年ごろと見られる)後の法名だが、本稿ではこれで統一したい。おさない頃から聡明であったらしく、数々の伝説が残っている。なかから筆者の好きな逸話を挙げさせていただこう。
ある日、駿河(静岡県)の今川家へ嫁いだ姉から、貝覆いという遊戯に使う蛤が送られてきた。数えたところ、4000近くある。家臣たちに数を当てさせてみると、ある者は2万といい、ある者は1万5000などと答えた。信玄がいわく、「兵の数など多くはいらぬ。5000もあれば、敵のほうで勝手に多く見積もってくれるものじゃ」。このとき13歳。
信虎追放の真相は?
さて、信玄が21歳のおり(1541)、父を追放し当主の座についたことは、あまりにも有名である。これは後編でのべる嫡男の死とともに、生涯最大の汚点と見なされ、しばしば敵方から糾弾されるポイントとなった。
では、なぜ彼は父の追放に踏み切ったのか。信虎の暴虐から国や民を救うためというイメージが浸透しているが、息子である信玄を称揚するための方便と見たほうがいい。信虎の暴政は信頼できる史料に具体的な記載がなく、胎児を見たくて妊婦の腹を裂いたなどの風聞は、古代中国以来、敗北した側が押しつけられる暴君像を踏襲したものだろう。
近年の研究では、信虎の支配下で家臣たちが軍役に疲弊していた可能性が指摘されている。武将として有能だった信虎は、国内を平定したあと相模(神奈川県)、信濃(長野県)などへ出兵をつづけていた。たびかさなる戦に負担を強いられた家臣たちが、嫡子である信玄をかついで主君を放逐したというのだ。型通りの暴虐伝説より、はるかに現実味のある見解と思える。信虎は娘が嫁いだ今川家を訪ねるべく甲斐を出たが、婿である義元は信玄と通じており、帰国することは許されなかった。
たしかに政敵からすれば格好の攻撃材料だが、家臣たちの離反を招いた時点で、領主として信虎にも責があったといえる。また、信玄は父の暮らしに必要な金を今川へ送りつづけており、父・道三といくさにおよんで敗死させた美濃(岐阜県)の斎藤義龍あたりとくらべれば、はるかに穏当だろう。信長などにも当てはまることだが、歴史上での存在が大きくなると、それにつれて影の部分もクローズアップされていくものなのである。
信濃制圧~川中島への序曲
当主となった信玄は、はやくも翌年から信濃攻略に着手する。これは、信虎時代の方針を踏襲したもの。追放のいきさつを考えれば皮肉な成りゆきだが、甲斐は地味ゆたかな国とはいえぬから、領土拡張は必然の政策だった。駿河は今川、相模は北条といった大族が治めていたが、信濃は小領主が乱立する状態だったから、順当な判断というべきである。
諏訪、高遠、小笠原といった諸氏をたいらげ勢力を拡大していく信玄だが、このうち諏訪家は妹の嫁ぎ先だった。また、当主・頼重がほかの女との間にもうけた娘を側室としたから、戦国の世に数多ある話とはいえ、無残という思いはぬぐえない。よく知られたことだが、諏訪御料人と呼ばれるこの女性が、のちの勝頼を生む。
さきに信濃攻略は順当な判断としるしたが、たやすく進んだという意味ではない。なかでも北信の雄・村上義清は手ごわい相手だった。1548(天文17)年には上田原(上田市)の戦い、1550年には戸石城(同)の攻略戦で惨敗を喫している。前者では板垣信方、甘利虎泰などの宿老が討死をとげ、信玄自身も傷を負った。また、後者も「戸石崩れ」と呼ばれるほどの敗北で、武田方は1000人もの死者を出している。
信玄は1553年にいたって、ようやくこの難敵を駆逐するのだが、このおり功のあった武将が真田幸隆である。戦国の最後をかざる知将・真田幸村(信繁)の祖父であることは、ご存じの方も多いだろう。
10年以上を経て信濃平定に王手をかけた信玄だが、そのまえに強大な敵が立ちはだかった。言わずとしれた生涯の宿敵・上杉謙信である。川中島の戦いは目前にせまっていた。
【後編に続きます】
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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