梶原景時の変、比企能員の変を経て、幕府の実権を握る
梶原景時(かじわらかげとき)は、源頼朝の窮地を救ったことから頼朝に信任されて侍所の別当となった人物です。しかし、頼朝や頼家に重用され過ぎたことで、他の御家人からの嫉妬を買い、鎌倉を追放されて失脚します。
比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の側近として信頼の厚い人物で、娘を頼家に嫁がせて外戚関係を結び、北条氏を凌ぐほどの権勢となっていました。
ところが、頼家が危篤に陥ると、時政が能員の娘と頼朝の子である一幡と、頼家の弟実朝それぞれに、各地の地頭職と守護職を譲与することを定めました。この決定に不満を持った能員は、時政を追討しようと画策します。
しかし、政子が時政に能員の画策を暴露したことで、比企一族は滅ぼされることとなったのです。有力御家人であった景時と能員を滅ぼしたことで、時政は幕府の実権をしっかりと握ることになりました。
牧氏の変で失脚…
比企一族が滅ぼされたことで、三代将軍のポストには実朝が就くことに。時政は、大江広元とともに政所別当(執権)として幕府の実権を握りました。しかし、時政は後妻である牧の方と共謀して、牧の方との間に生まれた政範を後継者にしようと実朝の殺害を計画したと言われています。
ところが、直前に子の義時と政子に企てに気づかれ、失脚してしまいます。その背景には、時政は後妻牧の方を愛していましたが、先妻の子・政子と義時は、継母と不和であったこともあるようです。
政子らによって幕府から追放された時政は、出家し、伊豆国で退隠することに。建保三年(1215)、北条の地で腫れ物が原因で亡くなりました(享年78歳)。
まとめ
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によると、時政は、娘の政子が頼朝との間に子どもが出来た際、平氏との関係から一度二人の仲を引き裂こうとしていたとされています。
しかし、頼朝が挙兵する際には、集められるだけの兵を集めて頼朝に協力する選択をしました。見事勝利をおさめ、一代で鎌倉幕府の大きな権力を手にすることになった時政は、非常に先見の明があった人物であったといえるのかもしれないですね。
文/清水愛華(京都メディアライン・http://kyotomedialine.com)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本国語大辞典』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)