異国の地を踏んだ幻の次期将軍 徳川昭武。
(国立国会図書館蔵)

江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、子だくさんだった御三家水戸家の当主斉昭の七男。『青天を衝け』でパリ万国博覧会に派遣された徳川昭武は十八男になる。

かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

徳川慶喜(演・草彅剛)は、慶応2年(1866)7月に徳川宗家を継ぐや、やがて将軍となる日のために、下地作りを始めた。そのひとつが、16歳年下の弟、昭武(演・板垣李光人)に御三卿の一つ、清水家を相続させたことだ。昭武は、水戸藩の9代藩主斉昭(演・竹中直人)の十八男にあたる。ちなみに慶喜は7番目で、七郎麿という幼名だった。

よく知られた話だが、烈公こと斉昭は子どもの教育に異常なほど熱心だったが、なぜか幼名の名づけに関してはあまり執着がなかったようで、長男を鶴千代麿と名付けた以後は、二郎麿、三郎麿と数字をカウントしてゆき、十郎麿までいくと、なんと十一男は「余一麿」と名付け、以下、余二麿、余三麿と十九男の余九麿までこのパターンを続け、とうとう二十二男の廿二麿(にじゅうにまろ)で打ち止めとなっている。

十八番目の余八麿こと昭武は、兄慶喜にその才を愛され、13歳で清水家を継ぎ、それまで松平姓を名乗っていたのを「徳川昭武」と改めた。御三卿というのは田安・清水・一橋の三家で、御三家の紀州徳川家から宗家(将軍家)を継いだ8代将軍吉宗の血筋から分家した家で、御三家に替わり将軍家のスペアとして創設された。つまり、昭武は清水家を継ぐことで、次期将軍の候補という立場を手に入れたわけだ。

御三卿の田安家には、のちに慶喜の後を継いで徳川宗家(16代)を継ぐ亀之助(のちの家達)がいた。14代将軍家茂(演・磯村勇斗)が死去する直前に後継将軍に指名したのはこの田安亀之助だったが、まだ満3歳の子どもだったために、仕方なく慶喜が継いだという経緯もある。

同じく御三卿の一橋家は、言うまでもなく、直前まで当主だった慶喜が徳川宗家を継いだため、急遽、元尾張藩主の徳川茂徳(一橋家を継いで茂栄と改名)が家督を継いでいた。実は亡くなった将軍家茂は、この茂徳が清水家を継ぐことを望んでいたということだが、慶喜が「昭武⇒清水家相続」「茂徳⇒一橋家相続」という組み合わせに変えてしまったという。

子宝に恵まれた徳川斉昭の子息たち。(成人した男子のみ記載)

徳川慶喜首相!? 最後の将軍が構想したポスト幕府の新政権

御三卿は、田安・一橋・清水の順に創設された。将軍継承の優先順位も、この順番を意識して決められたことだろう。

将軍家茂の生前には、

  田安家=亀之助
  一橋家=慶喜
  清水家=当主不在

という状況だったわけで、田安亀之助に将軍を継がせるつもりだった家茂が、徳川茂徳に「空き家」である清水家を継がせようとしたのは当然だろう。

しかし、新たに宗家を継いだ慶喜からすれば、茂徳を清水家当主として、弟昭武を「格上」の一橋家に入れるのは、少し憚られたのかもしれない。

結果として、御三卿の顔触れは、

  田安亀之助(3歳)
  一橋茂徳(35歳)
  清水昭武(13歳)

このように固まった。

この段階で、男子のいない慶喜が将軍になると、将軍世子となるべきは血筋からいえば亀之助であり、キャリアの点では茂徳が優先されるという状況だったろう。ただし、茂徳は元尾張藩主とはいえ、尾張藩の支藩である高須藩の出身だった。

しかも安政の大獄で尾張藩主の慶恕(実は茂徳の実兄)が隠居・謹慎せられたために、仕方なく尾張藩主となったという経緯がある。さらに兄慶恕の謹慎が解けたことで風向きが変わり、慶恕の子どもに藩主を継がせたいという空気が藩内に生まれ、茂徳は若くして尾張藩主の座を兄の子に譲り隠居していたのだ。

そういう複雑な経緯を経て一橋家を継いだ茂徳に、はたして次期将軍の目があっただろうか。おそらく順当にいけば後継者は亀之助だろうが、急に慶喜が将軍を辞職したり死んだりしてしまった場合は、幼い亀之助にかわり昭武が次の将軍(徳川宗家)となる可能性も大いにあったと思われる。

慶喜は、自分に何かあったときには、弟の昭武を次の将軍(宗家)とするというビジョンを描いていたに違いない。

慶喜は、すでに徳川家だけで幕府=政権を独占する政治体制は維持できないと考えていたとされている。天皇のもと、有力な公家や諸大名の代表も参加する新たな政府=公儀政体を構築し、自らのその首班(首相)となるつもりだったと考えられている。

となれば、徳川家は弟の昭武に任せ、自らは自由に新政権の長として活動するという具体的なプランもあったのではないだろうか。

徳川昭武は、次期将軍として期待される人物だったのだ。

慶応3年(1867)正月、その昭武は将軍慶喜の名代として、パリ万国博覧会に出席するために渡欧した。現地では「次期将軍の有力候補」の「プリンス・トクガワ」と呼ばれたというが、それは昭武の立場を正確に反映した呼び名だったのだ。


安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

 

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