現在の埼玉県深谷市に位置する渋沢家のふるさと血洗島。わずか2万石余の小藩で育まれた渋沢一族の「商魂」について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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渋沢栄一(演・吉沢亮)が生まれ育った渋沢家は、農家でありながら、藍染の原料となる藍玉の加工製造と販売を手掛けるなど、商売にも手を染めていた。この渋沢家、血洗島村の周辺にいくつもの分家がちらばり、栄一が生まれた天保年間には10家ほどに増えていたという。
ちなみに現在、渋沢生家の周辺に行くと、ネギ畑の隙間にいくつもの墓地が目につく。墓石の文字に目をやると、その大半が「渋沢家」であることに驚く。
数ある渋沢家のなかで、栄一が生まれた家は地元では「中ノ家(なかんち)」と呼ばれている、渋沢一族の本家筋だ。ほかに「前ノ家(まえんち)」「東ノ家(ひがしんち)」「新屋敷」「古新宅(こしんたく)」などの分家筋があった。
「中ノ家」は、歴代の当主が「市郎右衛門」を名乗ったことから「市郎右衛門家」ともいわれた。本家筋=宗家ではあったが、この当時、一族でもっとも裕福だったのは「東ノ家」で、こちらの当主は代々「宗助」を名乗ったので、「宗助家」ともいわれていた。
栄一の生まれた「中ノ家」は、栄一の祖父の時代に、理由は定かではないが経済的な苦境に陥り、資産も田畑も手放してしまったらしい。栄一の父の市郎右衛門 (演・小林薫)は、もともとは「東ノ家」の三男で元助といった。幼いころから優秀な人物だったので、本家である「中ノ家」を再興するために、婿養子となって「中ノ家」の当主市郎右衛門となったのだ。
『青天を衝け』では、市郎右衛門が「東ノ家」の宗助(演・平泉成)を「兄ぃ」と呼んでいるが、これは実の兄だから当然のことなのだ。
本家を継いだ市郎右衛門は、質素倹約に励むと同時に、藍玉の製造販売に本格的に取り組むようになった。さらに他の商売にも多角的に乗り出し、気が付けば「中ノ家」は村でも指折りの資産家となっていたという。
市郎右衛門には、明らかに商才があった。品質の良い藍の葉を買い付け、発色の優れた藍玉を作り、それを染め物の紺屋に高く買い上げてもらう。製造販売業の基本が身についていたのだろう。
1年で1万両の売り上げ
栄一の「中ノ家」は、藍玉の販路を信州上田方面に開拓していたが、渋沢の分家は、それぞれ上野国の伊勢崎など、「中ノ家」と被らない地域に販路を広げていったという。これは、一族をひとつの「家」としてとらえ、それが1個の企業体のように連携しつつ、それぞれが独自の販路を獲得して経営を拡大するという、近代的な企業の在り方にも通じるだろう。
栄一は、父の市郎右衛門が商売に精を出し、一族を「会社」のようにコントロールして商圏を拡大してゆく様子を、間近に見ながら育ったのだ。のちに西欧先進国が編み出した株式会社のシステムを日本に導入して根付かせた栄一だが、その土壌は、武蔵国の農村で鍛えられたものだったのだ。
ちなみに市郎右衛門時代の「中ノ家」の商売はどれくらいの規模だったのか。
藍玉の売り上げをみると、取引先1軒につき年平均100両の取引があったという。信州上田方面に100軒の取引先の紺屋があったと仮定すると、1年で1万両の売り上げが見込めたことになる。
のちに栄一は、岡部藩の代官から500両の御用金を上納するよう命じられ、ひどく憤慨したが、まあ1万両も稼げば、実際のところ500両は払えない額ではなかったわけだ。
経営感覚に優れた人物であった市郎右衛門は、人望も厚く、岡部藩主の安部家から血洗島村の名主見習に任命され、苗字帯刀も許されるという厚遇を受けた。武士の身分になれたわけではないが、名目上は武士の待遇を受けたということだ。
もともと市郎右衛門は武士になるという大望を抱き、神道無念流の剣術を習ったりもしていた。その夢はかなわなかったが、武士としてのスピリットは持っていたのだ。
栄一は、のちに一橋家に仕官して武士となる。その武士としてのスピリットも、経営感覚と同じく、父や父祖の地である血洗島村によって養われたものだったのだろう。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。