禁裏御守衛総督時代の徳川慶喜。向かって左にライフル、右に刀が置かれている。

結果的に「最後の征夷大将軍」となった徳川慶喜。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

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世が世なら源義経?

幕末の混迷する政局にあって、抜群の存在感を示しているのが、徳川慶喜(演・草彅剛)だ。慶喜と言えば「最後の将軍」だが、獅子奮迅の「活躍」を見せたのは、将軍就任前の、禁裏守衛総督(きんりしゅえいそうとく)時代かもしれない。
 
慶喜が禁裏守衛総督と摂海防禦指揮を朝廷=孝明天皇(演・尾上右近)から命じられたのは元治元年(1864)3月のこと。それまでは幕府に命じられた将軍後見職にあったのだが、これを辞任しての就任だった。

将軍の名で命じられた役職を一方的に辞めて、天皇の名で命じられた新たな役職に就いたわけだ。世が世なら、無断で朝廷から官位をもらい、「鎌倉殿」こと源頼朝の勘気をこうむった源義経のような境遇になっていたところだ。

だがこの時の将軍や幕府には、もはや慶喜を咎める力はない。慶喜自身、ときに自分に敵対し、足を引っ張ったりする幕府や幕閣と距離をおき、孝明天皇に接近してその権威を背景にした方が政治をやりやすいというところもあったのだろう。

ちなみに禁裏守衛総督への就任に力を尽くし、朝廷工作を担当したのが、平岡円四郎(演・堤真一)だった。

征夷大将軍の代わり?

禁裏守衛総督とは、天皇のいる禁裏を警護する最高責任者という意味。さらに摂海防禦指揮とは、大坂湾に入ってくる外国人から天皇をガードする役割だ。外国人=外夷から日本(天皇)を守るのは、本来は征夷大将軍のはずだった。なにしろ「征夷」が任務なのだから。

その将軍を無視して、慶喜に外交担当を任せたのは、再三、幕府に攘夷実行を命じたにも関わらず、それが実行に移されないことに対する朝廷のいら立ちも背景にあっただろう。

もちろん、攘夷などできるわけがないし、慶喜も攘夷などする気はない。

しかし、当時の政治情勢下では、朝廷は幕府に攘夷を命じることによって、この国の統治者としての正当性を知らしめることができ、幕府はたとえ口先だけでも攘夷を約束することで、国の現実政治を担当する正当性を保持することができたのだ。

だから、誰もが方便として攘夷を口にしながら、実際には誰も本気で攘夷に取り組まないというモラルハザードが起きていたわけだ。

「もう一人の将軍」の誕生

慶喜はそんなモラルハザードには目もくれず、天皇と直結することで政治権力を自らに集中させようと企んだ。

後の「将軍就任」をもって、慶喜が最高権力者の座についたというイメージがあるが、実際には将軍の権威はすでに地に落ちていて、それほど大きな意味はなかった。むしろ将軍という、古びて壁から落ちそうになっている「看板」など放っておいて、新たな権力者となることを慶喜は目指していたのだろう。

その点でいえば、この禁裏守衛総督時代が慶喜の絶頂期ととらえるべきかもしれない。

最近の研究者は、慶喜の禁裏守衛総督就任をもって「もう一人の将軍の誕生」とか、「京都幕府の成立」といった言葉を使っている。慶喜本人は江戸の幕府を否定していたわけではない。おそらく慶喜は、幕府のくびきから逃れて新た権力機構を創出し、結果として徳川幕府の再生を図ろうと考えていたのではないか。

禁裏守衛総督となった慶喜にとって、最大の見せ場となったのが、禁門の変(蛤御門の変)だ。文久3年(1863)8月18日におきたクーデター「八・一八政変」で京都を追われた長州藩と親長州勢力は、元治元年(1864)7月に復権を策して上洛し、御所に向けて進軍した。

彼ら長州勢力を撃退したのは、軍事的には薩摩や会津の藩兵だったが、その指揮をとり、恐怖のあまり長州との和議を図ろうとする朝廷に乗り込み、彼らを黙らせることで最終的に勝利を勝ち取ったのは慶喜であった。

「無双の豪傑」の活躍

慶喜は、愛馬「飛電」を駆使して最前線で味方を鼓舞し、一方で戦闘が止むまでの間に4回も禁裏に戻って天皇の安否を気遣い、朝廷の動向ににらみをきかせた。二度目に踏み込んだとき、長州にシンパシーを抱く公家が、勝手に長州との和議を結ぼうと動き始めていた。慶喜はたったひとりで舌戦を挑み、彼らを徹底的に論破したという。

次に慶喜が前線から禁裏に立ち返ると、今度は天皇を御所から逃がして下賀茂に移そうとする相談が始まっていた。天皇の住まいである紫宸殿には、すでに天皇逃亡に備えて乗り物(鳳輦)や三種の神器が用意されていた。

これを目にした慶喜は、一目散に孝明天皇のもとにすり寄って袖をつかみ、「私が守護したてまつるので、まだ御遷幸(天皇が動座すること)の時期ではございません!」と声をあげた。

これに力を得た天皇は、御所からの逃亡を思いとどまり、慶喜に対する信任をますます深めたという。

この騒動を間近で見ていたひとりに、薩摩藩家老の小松帯刀がいる。小松はこの時の慶喜を「威儀堂々」「無双の豪傑」とほめたたえている。

当時の慶喜は、満27歳。まさに人生のピークを迎えていた。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

 

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