平岡円四郎(演・堤真一)が勤めた一橋屋敷跡。江戸城一橋門内にあった(千代田区大手町1丁目)。

幼いころから「英邁」との評判が高かった徳川慶喜。風雲急を告げる時勢の中で、将軍後継候補に浮上する。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

徳川慶喜(演・草彅剛)の側近にして、渋沢栄一(演・吉沢亮)を武家奉公に導いた恩人でもある平岡円四郎(演・堤真一)は、文政5年(1822)に旗本岡本忠次郎(近江守)の4男(2男とする記録もあり)として生まれた。

父の忠次郎は岡本花亭という雅号をもつ文人だったが、天保の改革で知られる老中水野忠邦によって信濃の中野代官に取り立てられ、最後は勘定奉行にまで出世している。

この岡本花亭は、同じく水野忠邦に登用された川路聖謨(かわじとしあきら/演・平田満)や矢部駿河守(定謙)と親しかったらしい。その縁があって、のちに川路は藤田東湖(演・渡辺いっけい)を介して円四郎を一橋家に推薦し、円四郎が慶喜に仕えるきっかけを作っている。おそらく、幼いころから知っている同僚の息子が、非常に優秀であることを知っていたのだろう。

その円四郎は、天保9年(1838)に、父と同じころに越後などで代官をつとめていた旗本平岡文次郎の養子となる。

文次郎は、越後の水原代官と奥会津の田島代官を兼務していた天保14年(1843)に、会津と越後を結ぶ峠道「八十里越え」の改修工事を成功させたことで知られている。農民に負担をかけないよう、越後の商人から莫大な寄付を集めて工事につぎ込んだという。地元の農民たちは文次郎を慕い、彼が田島代官を退任する際は、勘定奉行に留任を請願するほどだったという。

当時、円四郎は16歳。養父となった文次郎のこうした働きを間近で見ていたに違いない。

円四郎は、嘉永6年(1853)、31歳の時に一橋慶喜の小姓として採用された。当時の円四郎は、現代でいえば最高裁判所の審理実務を担当する評定定所留役という職務を経て、町方与力の中村次郎八の元で修業中の身だった。実務官僚としてキャリアを積んでゆくつもりだったのだろう。最初は慶喜の小姓となるのを固辞したようだが、断りきれなかったらしい。

これまで高貴な身分の人物に仕えたことなどなかったので、万事に粗野で、慶喜も困ったらしい。慶喜の髪を結ったり、食膳の給仕をするのも小姓の役目だったが、あまりにも乱暴だったので、見かねた慶喜が自分で飯をよそってみせ、給仕の仕方を教えたという話もあり、『青天を衝け』でもその通りの場面が描かれていた。

やがて円四郎は才気あふれる慶喜にほれ込み、13代将軍徳川家定の後継者問題が起きた際は、徳川斉昭、松平春嶽、島津斉彬らの「一橋派」の大名たちと連携して、慶喜を次期将軍に推そうと運動を始める。ところが、当の慶喜は次期将軍の座に色気を見せず、むしろ円四郎らの動きにストップをかけようとする。

「神君家康公の子孫にして・・・・・・」

こうした状況で、円四郎は慶喜がいかに次期将軍に相応しい逸材であるかをアピールするために、これまでの業績や優れた言動を書き留めた推薦状を書き上げ、幕閣をはじめとする要路にばらまこうとした。

2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』では、平岡円四郎(演・山田純大)が書いた推薦状「橋公行状記」を、島津斉彬家臣の西郷吉之助(演・鈴木亮平)と、松平春嶽家臣の橋本左内(演・風間俊介)が必死で書き写して大奥や諸藩にバラまこうと密議をこらしていたが、それを盗み聞きしていた一橋慶喜(演・松田翔太)本人が割って入り、「橋公行状記」を破って火鉢で焼き捨ててしまうという場面があった。

この「橋公行状記」は「橋公略行状」とも呼ばれるもので、円四郎が書き残した数少ない史料のひとつとされている。

東洋大学教授の岩下哲典さんの研究によれば、円四郎が書いた推薦状は「橋公略行状」とはもう一通別にあり、その写本の一つは「慶喜公御言行私記」という書名で名古屋市蓬左文庫に残されているという。この「慶喜公御言行私記」を家臣の橋本左内を通じて入手した松平春嶽は、幕閣向けに手を入れて「橋公略行状」としてまとめ直し、それを幕閣に見せたらしい。

円四郎「慶喜公御言行私記」⇒ 橋本左内 ⇒松平春嶽「橋公略行状」 ⇒幕閣

このような流れになる。

もっとも「慶喜公御言行私記」も「橋公略行状」もその内容に大差はなく、慶喜がいかに名君であるか、いかに次期将軍に相応しい人格者であるかをひたすら書き綴った内容となっている。

また、ここには慶喜が父の徳川斉昭を深く尊敬しているけれど、その意見は必ずしも同一ではないということも書かれている。水戸の老公こと斉昭は、尊王攘夷を掲げて多くの支持を集める一方、幕閣や大奥には斉昭を毛嫌いし、そのあまりに頑迷で独善的な攘夷の主張を警戒する向きもあったので、そういう風潮に対して「慶喜は斉昭より冷静で開明的」だとアピールする意図もあったのだろう。

総じて円四郎が描く慶喜像は、神君徳川家康の子孫に相応しい徳を備えた人物で、幕府のルールや命令をしっかり守る人間であり、家臣に対して思いやりが深く、儒学をよく学んで西洋の風習を嫌ったが、航海術や砲術などの進んだ文明は取り入れる柔軟さを持ち……何しろ素晴らしい人なのだ、ということに尽きる。

ちなみに、この「慶喜公御言行私記」「橋公略行状」には、慶喜の人となりをうかがわせるいくつものエピソードが紹介されている。もちろん慶喜を美化する意図も含んでいたとは思われるが、比較的信憑性が高い話が多く、『青天を衝け』でも随所に活かされているようだ。

一橋派は、円四郎が描いた「慶喜像」をひたすらアピールして、将軍継承争いに向き合ったわけだが、結果的には一敗地にまみれることになる。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

 

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