意外な弱点

まこと見事というほかない人物だが、そんな栄一にも泣きどころはあった。女色だけは律しきれなかったらしく、数多の愛人を囲い、80歳をすぎても子をもうけている。これが政府の顕官なら、さもありなんというところだが、ほかの振る舞いが立派なだけにしばしば噂の的になった。

日本女子大学の創立にあたり栄一の助力を仰いだ成瀬仁蔵(1858~1919)も、当然といえば当然だが、女癖の悪さだけは容認できなかったようだ。「あなたはほかに申し分のない人だが、この点だけは同意できません」と詰め寄ったらしい。栄一の四男・秀雄は、父が女子教育に尽力したことを「(女道楽への)罪ほろぼしの意識も潜んでいたような気がする」と述懐しているが、これはいささか単純な見方ではないか。すがすがしいまでの公徳心と女色への衝動が共存してしまうのが、人間というものだろう。

家族にも彼の性癖は知れ渡っていたようで、夫人などは栄一の論語好きをくさし「あれが(性的戒律に厳しい)聖書だったら、てんで守れっこない」とぼやくのが常だった。彼自身にも弱点として自覚があったと見え、「婦人関係以外、天地に恥ずるものはない」とわざわざ言い残しているところが、なんともおかしい。「もし父が……(女性関係も)天地に恥じないほどの人だったら、私などにはもっと近づきがたい親だったろう」とは、やはり四男・秀雄の言である。

渋沢栄一は、1931(昭和6)年、数え92歳で天寿をまっとうした。この翌年、五・一五事件がおこり、日本は無謀な戦争への道をひた走ってゆく。彼が生きていればその流れを止められたとは思わぬが、暗示的なタイミングではあるだろう。それほどに、栄一は近代日本の「陽」を体現した人物だった。

彼の生涯を通観して浮かぶのは、「ノブレス・オブリージュ」という言葉である。もともとは古代ローマに端を発する表現で、「地位や資産のあるものは、それを社会に還元すべきだ」という思想。欧米ではひろく行きわたっている考え方だが、わが国ではまだまだ根づいていると言いがたい。が、この言葉じたいを意識してかどうかはともかく、維新後の日本でもっとも見事にこうした姿勢をつらぬいたのが渋沢栄一だったのではないか。稀代の巨人を振りかえり、いま筆者には、そう思えてならないのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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