なぜ光秀がこの場所に築城したのか?
ライターI(以下I): 周山城のある京北周山は、住所が京都市右京区ですが、京都駅から車で約1時間30分ほど離れた場所にあります。
編集者A:取材したのは2年前の11月。実は、夏にも藤田教授の著書『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』の取材に行ったのですが、その際は大雨で城跡に登ることができませんでした。夏にはヒルが出るというので万全の対策をして行ったのですが(笑)。
I:なぜ光秀がこの場所に築城したか? 地図を見れば明白になるんですよね。日本海側の開運の要衝小浜と京都を結ぶ「周山道」に位置するわけです。
A:光秀は近江の坂本城も領し、琵琶湖の海運も掌中にありました。つまり物流の拠点を押さえる織田家中の大大名だったわけです。
I:取材の際には、地元の菓子店「亀屋廣清」のご夫婦にお世話になりました。同店は〈周山城址を守る会〉の広報を担当されていて、店内には登城時に役立つ資料が置かれていました。
A:「麒麟がくる」では、岐阜県や京都府で6つもの「大河館」ができています。京北周山には「大河館」こそないものの、光秀の黒塗りの木像のある慈眼寺と周山城があります。京都市から少し離れていますが、訪ねて損はないところだと思います。
I:そう思う理由をもう少し詳しく教えてください。
A:登城の際に、眺望が開ける場所があり、右側に山国荘、山を挟んで左側に弓削荘と中世からの荘園が見渡せる場所があります。まさに歴史的景観でした。このうち山国荘は、禁裏御料(皇室の領地)として著名な荘園で、光秀が平定する前には地元の豪族に押えられていました。
I:光秀が丹波を平定したことで、山国荘を朝廷に帰することができたわけですね。
A:はい。そのことで光秀は正親町天皇から賞されたそうです。光秀にとって名誉なことだったと思います。周山城から眼下に広がる山国荘を望んで、光秀の心情に思いを馳せると胸が熱くなる思いがしました。
I:そのほか周山城には石垣遺構がかなり残っていました。『麒麟がくる』でも律儀で精緻な光秀が描かれていますが、周山城の造りにも光秀の性格が反映されているということでした。
A:本当にそうですね。そして本丸跡にたった時に、この城で月見と連歌の宴を開いていたというエピソードのことを考えると、本当に胸熱でした。宴が開かれた天正9年8月といえば、本能寺の変の10か月前です。同じ年の6月には信長への感謝の思いを込めた軍法もまとめていました。それなのになぜ、信長を討つという方向に舵を切ったのか、本当に謎です。
I:『麒麟がくる』はそうした光秀の心情の変化をどこまで描くんですかね。
A:それは今後の焦点ですが、周山城で光秀はどんな月を見たのか。取材時には月は見られませんでしたが、今度は周山で月見をしたいですね。
※この記事は、『サライ』2020年2月号 「明智光秀 波乱の生涯を旅する」から再構成しました。
●ライターI 月刊『サライ』ライター。2020年2月号の明智光秀特集の取材を担当。猫が好き。
●編集者A 月刊『サライ』編集者。歴史作家・安部龍太郎氏の「半島をゆく」を担当。初めて通しで視聴した大河ドラマは『草燃える』(79年)。NHKオンデマンドで過去の大河ドラマを夜中に視聴するのが楽しみ。編集を担当した『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』(藤田達生著)も好評発売中。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり