混沌とした戦国九州の調停役として下向

その2年後の天正3年、かつて前久と対立していた二条晴良が信長の不興を買ったこともあり、前久の帰京を邪魔するものはいなくなった。信長は前久の朝廷復帰を天皇に奏請し、これを受けて前久は京にもどってきた。以後、前久と信長は友好関係を築くこととなる。

この年の9月、前久は信長の要請を受けて、九州に下向する。越後のときとは違い、今回は明確な使命を帯びての下向だ。前久は約1年半の歳月をかけて薩摩(鹿児島県)の島津氏と肥後(熊本県)八代の相良氏の和睦を斡旋。さらに豊後(大分県)の大友氏、日向(宮崎県)の伊東氏などにも働きかけ、互いの争いを停止するよう、説得することに成功した。

公家の名門である近衛家は、もともと島津家や諸大名とパイプがあり、まだ前久自身、当時第一級の文化人でもあったので、どの大名家を訪ねても歓迎された。すでに公権力として自らの政権を位置付け始めていた信長にとって、前久は「利用価値」のある存在だったのだろう。

前久は織田信長とも意気投合。武田攻めにも参陣した。

さらに天正8年になると、前久は大坂の本願寺と信長の和睦に乗り出し、これを成功に導いた。10年に及ぶ本願寺攻めを収束させたことを信長は高く評価し、天下平定のあかつきには、近衛家に一国を献上するとまで約束したという。

天正10年、信長は満を持して甲斐(山梨県)の武田勝頼を討つために出陣した。このとき、前久も織田軍の一部将として従軍している。ほかにも何人かの公家が従軍しているが、これは信長が自らの軍勢を「公儀」の軍と位置付けるための演出だった可能性もある。公武一体となって武田氏を討伐に行く。公家衆を軍勢に帯同することで、その正当性と権威をアピールしようとしたのかもしれない。

しかし、前久は先に紹介したように、上杉謙信とともに関東に出陣した経験があり、さらに信長の依頼で九州に下向したおりも、島津氏が行う戦に従軍を願い出て、丁重に断られたという経緯もある。どうも前久という人物は、戦が好きだったのではないか。武田攻めに前久らの公家が従軍したことについては、勧修寺晴豊(かじゅうじ・はれとよ)のように批判的な公家もいたのだから、明らかに前久は自発的に従軍を望んだに違いない。

前久は、武家のたしなみである鷹狩を愛したことでも知られている。同じく鷹狩を好んだ信長とも、その点で意気投合したというから、どう考えても武家にシンパシーを抱く人物だったように思えてならない。

その前久だが、武田攻めに赴く1か月前の天正10年2月2日、突如として太政大臣に任じられている。しかも、武田家を滅亡させて帰京したのち、5月にはこの太政大臣職を辞任してしまう。太政大臣は常置の職ではなく、この時代には長年朝廷に仕え高位を担った人物に授ける名誉職のようなものだった。

前久の前の太政大臣は前久の父近衛稙家で、天文10年(1541)に辞任していたため、40年にわたり太政大臣は空位だったのだ。突然の就任と、わずか2か月余での辞任。この辺りの事情については、いまだ明確な答えは出されていない。

それから一か月後の6月2日、織田信長は本能寺において明智光秀に討たれる。そして光秀もまた、11日後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れてこの世を去ることになる。

信長の死を知った前久は、直後に出家して龍山と号した。そして、山崎の戦いが終わり京が静謐を取り戻すと、前久に本能寺の変への関与の疑いが掛けられるようになる。 信長の嫡男信忠の籠もる二条御所を明智勢が攻めた際、隣接する近衛邸の屋根に上って二条御所を銃撃したというタレコミがあったのだ。信長の3男信孝と秀吉は、前久を詰問 した。居場所を失った前久は、徳川家康を頼り遠江(静岡県)に下向する。

翌天正11年には、家康の斡旋もあり京に帰ることを許されたが、天下人となった秀吉から最終的に許されるのは、小牧・長久手の戦いのさなか、天正12年7月のことだった。その翌年、秀吉は二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職をめぐる争い(関白相論)に介入。近衛前久の猶子(名目上の父子となること。養子)となることで、まんまと関白職を手中に収め、関白豊臣政権を樹立した。

前久はまもなく政界を引退し隠居生活入る。そして、徳川の世になって10年余を過ぎた慶長17年(1612)、ひっそりと77年の生涯を終える。

天正10年の、あまりにも唐突な太政大臣就任と辞任の経緯や、本能寺の変に真っ先に事件のへの関与を疑われたことなどから、平成の時代になって本能寺の変の黒幕では? との観測も流れた。

しかし、越後から失意の帰国を果たした後の前久が、信長と一貫して密接・良好な関係を続けてきたことを考えても、また本能寺の変直後に出家をしたことを見ても、前久が事件に関与していたと疑うのは無理があるだろう。むしろ信長は、朝廷の再興という前久の希望をかなえてくれた希望の星だったはずだ。

ましてや、前久は本能寺の変への関与が注目されている足利義昭とは対立関係にあった。義昭-明智光秀―毛利輝元といった、光秀派との接点も利害関係の一致も認められないのだ。

最高位の公家でありながら、武家的なマインドをもち、自ら戦場に赴くことを好んだ前久は、信長、秀吉、家康という武家政権のトップともっとも密接な関係をもった異色の公家だった。信長より2歳若く、秀吉より一つ上の前久は、まさに戦国時代から江戸時代へと移り変わる時代を間近で見続けた「時代の生き証人」と言えるだろう。

「麒麟がくる」ではどのような姿を見せてくれるのか、興味はつきない。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

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