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覚慶時代の足利義昭(演・滝藤賢一)を描いた『麒麟がくる』。

大河ドラマ『麒麟がくる』でいよいよ織田信長(演・染谷将太)が足利義昭(演・滝藤賢一)を奉じて上洛する段に突入する。兄義輝(演・向井理)が殺害された永禄の変から3年。時代は大きく動き出す。
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

永禄8年(1565)5月19日、将軍足利義輝が三好義継や三好三人衆によって殺害された。三好らは、義輝の末弟で鹿苑院の院主(住持)となっていた周暠をも殺害した。奈良興福寺一乗院に身を置いていた義輝の次弟覚慶(足利義昭)が命の危険を感じたのは当然だ。

三好家の重鎮である松永久秀は、覚慶の身の安全を保障すると同時に、事実上、幽閉してしまう。しかし、7月28日に覚慶は奈良を脱出し、近江(滋賀県)甲賀郡の和田に身を隠した。覚慶のもとには、三淵藤英・細川藤孝兄弟や一色藤長といった将軍義輝の側近たちが徐々に集まってきた。覚慶を還俗(僧侶から俗人に戻ること)させて、次の将軍の座につけるためだ。

その後、覚慶は琵琶湖畔の矢島の地に移り、ここで還俗して足利義秋と改名した。この間、覚慶あらため義秋は、越後の上杉輝虎(謙信)をはじめとする諸国の大名に手紙を送り、自分は間もなく上洛するので(つまり、将軍になるので)、忠義を示してくれ、と呼び掛けている。

具体的にどうせよとは書いていないところがミソなのだが、要するに何かあったら軍勢を出して助けてくれ。そうすれば将軍になったあかつきには、官位をあげるなどいろいろお礼をするから、わかるよね? というメッセージだ。

しかし、実際に義秋のために兵を送ったり駆けつけてくれる大名など一人もいなかった。この段階の義秋は、あくまでも前将軍の弟で、次期将軍の候補者に過ぎない。将軍になれるかどうかも怪しい存在だ。

当時、各地で勢力を広げる戦国大名たちは、近隣の勢力との生存競争を繰り広げていた。将軍になるかもしれない(なれないかも?)男のために、本国の守りをおろそかにしてまで力を貸す酔狂な大名など、いるわけがないのだ。

室町幕府や旧来の秩序への忠誠心を持つ武将、あるいは「義の人」などと語られる上杉謙信も、義輝の殺害に激しく憤り、義秋の境遇に心を痛めている——と手紙には書くものの、我が身の危険を顧みず、実際に兵を率いて義秋を助けることなど、とうていできる状況にはなかったのだ。

いや、あえて義秋に力を貸そうとした大名が一人だけいた。それが織田信長だった。

東京大学史料編纂所の村井祐樹さんの研究によれば、信長は永禄9年8月に、義秋を推戴して上洛する計画を立て、尾張(愛知県)から義秋のいる矢島に至る進軍ルートまで確保していたという。

しかもこの上洛は、信長だけでなく美濃(岐阜県)の斎藤龍興、三河(愛知県)の徳川家康、さらには伊勢(三重県)の北畠氏らを動員する、大掛かりな上洛計画であったらしい。

もともと、信長と斎藤龍興は交戦状態にあったが、信長の上洛を熱望する義秋が両者の仲介に乗り出し、一時的に和睦が成立していた。義秋の信長への期待は非常に大きかったようで、方々の大名に「信長が上洛する」と吹聴し、あわせて「だから、お前も協力してくれ」と呼びかけることに余念がなかった。

ところが、この計画は頓挫してしまう。当の信長が、斎藤龍興と再び交戦状態に入ってしまったのだ。

そもそも、織田氏と斎藤氏との抗争は、信長の父信秀、龍興の祖父道三の時代から続くもので、一時的な停戦状態が実現したとしても、再戦は避けがたかったのかもしれない。あるいは、小山高等工業専門学校の山田康弘さんが指摘するように、もともと信長は、龍興に対して劣勢だったので 、時間稼ぎのために義秋の和睦要請を利用した可能性もある。

いずれにせよ、この大上洛作戦は未遂に終わった。

悪いことは重なるもので、それまで義秋を保護していたはずの近江の実力者六角氏が、三好三人衆と手を組むことになった。三好三人衆は、義秋の従兄弟で10代将軍義稙の孫にあたる義栄を次期将軍に据えようと画策していた。義秋とは真っ向から対立することになる。

永禄9年8月29日、本来であれば信長らとともに上洛を果たしていたはずの義秋は、それどころか矢島から夜逃げ同然に脱出し、若狭(福井県)を経て越前(福井県)の朝倉義景のもとに逃げ込むことになった。

その直後、義秋と次期将軍の座を争う義栄が阿波(徳島県)から摂津(大阪府)に上陸する。そして、いよいよ義秋に先んじて将軍の座につくかと思われたが、今度は義栄を支える三好家に内紛が起き、分裂状態となってしまったのだ。義栄の将軍就任は延期を余儀なくされる。

一方の義秋は、永禄10年11月21日に朝倉氏の一乗谷に移った。しかし義昭を受け入れてくれた朝倉義景は、まったく上洛をするそぶりを見せない。そうこうしているうちに、永禄11年2月8日、とうとう義栄に将軍宣下がなされ、14代将軍に就任した。次期将軍の座をめぐる義秋と義栄の従兄弟同士の争いは、義栄の勝利に終わったのだ。

しかし、義秋はあきらめてはいなかった。本人もそうだが、これまで支えてきた周囲の人間も、まだ強大な戦国大名の軍事力を背景に上洛を果たせば、将軍義栄をさっさと追い出して義秋が取って代わることもできると思っていたのだろう。

同年3月下旬、義秋と朝倉義景は一緒に南陽寺(朝倉氏一乗谷遺跡に跡が残る)という寺の名物糸桜を見物し、歌を詠みあっている。義秋が「もろ共に月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はば」と、義景との契りが糸桜のように長く続くだろうと詠むと、義景は「君が代のときにあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」と、義秋との出会いや君臣の交わりを喜ぶ歌を返している。

二人の関係が良好であったことをうかがわせるが、一方で、二人は型どおりの「うるわしい君臣関係」を演じているようにも見える。

4月11日には、義秋は一乗谷の朝倉館で正式に元服の儀を済ませ、義昭と改名した。将軍就任を〈あきらめた〉のならば、元服の必要などない。義昭はまだまだ将軍の座に執着していたのだ。だが、義景は動かない。

そんなとき、2年前に上洛の約束をホゴにした織田信長が、義秋あらため義昭に使いを送り、「上洛のお供をしたい」と申し出てきた。同年7月頃と思われる。前回は、美濃の斎藤龍興と交戦状態になってため、上洛作戦は水泡に帰した。しかし、この前年の永禄10年の夏に、信長は斎藤氏を倒して美濃を手中に収めていた。もう邪魔をするものはいない。

申し出を受けた義昭は、もちろん踊りださんばかりに飛びついた。あっという間に一乗谷を後にして、7月22日にはもう信長の本拠である美濃の岐阜城に到着していたという。

当初は足利義昭と蜜月だった朝倉義景(演・ユースケ・サンタマリア)。

なぜ義昭は朝倉氏を頼ったのか?

結局、足利義昭が一乗谷に身を置いていたのは、永禄10年11月から永禄11年7月までの約8か月間。朝倉義景の軍勢を引き連れて上洛し、将軍職を義栄から奪い取るという目的はかなわなかった。それどころか、義景は義昭の望みに応じるそぶりさえ見せなかった。

では、そもそもなぜ、義昭は朝倉氏を頼ったのか。

すでに触れたように、当初から義昭が上洛の「供」として期待し、アプローチをしていたのは織田信長だった。そして、かなり早い段階から手紙を送るなどして助力を呼びかけていたのは、越後(新潟県)の上杉謙信だったことにも注意が必要だ。

そもそも、29歳で奈良を飛び出るまで、義昭は興福寺一乗院の僧侶に過ぎなかった。武家の棟梁、あるいは統治者・政治家としての経験も修練もまったくないにもかかわらず、将軍継承者争いの当事者となってしまったのだ。

そんな義昭が、まず手本にしたのは、兄である前将軍義輝であったろう。

義輝は、幕府の権力と将軍権威を復活させるため、諸国の大名たちに積極的に働きかけ、大名間の抗争の調停を行なった。諸大名の側にも、将軍の権威を利用して和睦を結びたいという「事情」もあったので、いくつもの成功例が挙げられる。

義輝は、中央政府である幕府が一定程度の影響力を行使することに成功していたのだ。

そして、諸大名のなかには、わずかな手勢を引き連れて上洛し、将軍義輝に謁見を果たした人物もいた。それが、上杉謙信と織田信長、そして斎藤義龍だった。彼らは永禄4年に相次いで上洛して義輝に謁見したが、義龍は永禄4年に病死している。

その4年後の永禄8年に、突如として将軍候補となった義昭が、まず最初に頼りにした地方大名が織田信長と上杉謙信だったのは、実に自然な流れであったわけだ。

そして、まず信長の上洛計画が、すでに触れたように頓挫する。ではどうする。当然、義昭が頼りにしたのは上杉謙信だったはずだ。越前の敦賀に身を置いていた永禄10年になっても、義昭は謙信に出陣を促す書状を送っている。

このときには、すでに朝倉氏のもとに逃れようとしていたと考えられていて、実際、この年の11月には一乗谷に身を寄せているのだが、義昭の「本命」は、上杉謙信だったとみるべきではないのか。

話を整理すると、将軍就任を目指し近江に逃れた義昭は、兄義輝と面識があって上洛にも前向きだった織田信長と上杉謙信を頼る心づもりだった。第一の候補は信長だったが、計画は失敗。次に上杉謙信を頼る気だったが、これも実現しなかった。当時の謙信は、関東管領として関東への出兵に忙しく、とても上洛あるいは義昭のもとに兵を送ることなどできなかったのだ。

信長も失敗、謙信もダメ。義昭は、「仕方なく」朝倉義景のもとに身を寄せたのだろう。また当時の朝倉氏は、加賀一向一揆と鋭く対立していた。加賀一向一揆と朝倉氏との和睦を演出できれば、朝倉氏も身軽になるだろうし、越後の上杉謙信が上洛する助けにもなる。

おそらく義昭は、そのように考えたのだろう。一乗谷に入った翌月、永禄10年の12月には、義昭の斡旋で朝倉義景と加賀一向一揆の和睦が成立している。

義昭は、地方の戦国武将の力を利用し、自分の上洛・将軍就任を実現しようと、実にアクティブに動いていたのだ。信長がダメなら謙信。それもダメなら朝倉義景。義景も難しいようなら加賀一向一揆との和睦を実現させる。

しかし、ここまでやっても義景は動かなかった。 信長からの二度目の 「上洛のお誘い」は、 かつての約束を果たすチャンスでもあり、膠着した朝倉氏頼みの状況を打破する活路でもあったのだ。

嫡男の死で頓挫した朝倉義景の上洛

なぜ朝倉義景は、足利義昭が再三にわたり上洛を要請したにもかかわらず、これを無視し続けたのか。

国立歴史民俗博物館教授などを歴任した水藤真さんは、嫡子の阿君丸の死を理由の一つとして挙げる。唯一の男児であった阿君丸の死によって後継者を失った義景は、政務や領国経営に対する熱意を失ってしまった。しかも、阿君丸は毒殺をされた可能性もあるという。当時、朝倉家中には後継者争いを含む同族争いが起きていて、阿君丸の死にも関係していたというのだ。

もちろんその可能性はある。しかし、そもそも当時の戦国大名が「上洛」をして将軍を助け室町秩序を復活させるなどということは、そう簡単にできることでもないし、想像も出来なかったのではないか。

足利義輝も弟の義昭も、全国の大名に手紙を送りまくり、SOSを発信し続けた。しかし、すでに触れたように上洛したのは三人だけ。しかも大軍勢を率いての上洛ではなく、将軍や天皇に謁見をしたり情報収集をするのがせいぜいの、「記念上洛」のようなものだった。もちろん、領国をカラにしておくわけにもいかないので、用事が済めばさっさと帰国している。

義昭の仲介によって一向一揆との和睦をはたしたように、朝倉義景にとって足利義昭は「利用価値」があった。とはいえ、生き馬の目を抜く戦国の世に、領国を留守にするリスクを冒してまで上洛して将軍に尽くす義理など、独立領主としての義景にはなかったのだ。

のちに織田信長は義昭を擁して上洛し、義昭を将軍の座に着けて、自らが事実上の公権力となっている。その事実を知っているわれわれは、それが戦国大名の「成功パターン」である

とついつい思ってしまうのだが、それは例外中の例外と考えるべきなのだ。

かつて今川義元も武田信玄も、上洛を目指した軍事行動の途中で倒れたと考えられていた。義元は桶狭間の戦いに敗れ、信玄は病に倒れたと。これも「成功パターン」に当てはめた思い込みであり、実際には上洛目的の出兵ではなかったことが、すでに指摘されている。

義景が上洛をしなかったのは、その意味では常識的な判断だったと考えるべきだろう。

春には、朝倉氏一乗谷遺跡には今も残るが咲く。(写真/福井観光連盟)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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