平均視聴率22.7%。当時、数年ぶりの高視聴率で話題になった大河ドラマ『利家とまつ』。若いころからの朋友で後に盟友となった豊臣秀吉と前田利家は、仲間割れの危機をどう乗り越えたのか?
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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大河ドラマ『利家とまつ』(2002)は、1981年に放送された大河ドラマ『おんな太閤記』の遺伝子を引き継ぐ、戦国時代を描いたホームドラマとして記憶に新しい。
従来の大河ドラマであれば、戦国武将の前田利家を主人公とするのが常道だが、ここでは利家の妻である「まつ」をもう一人の主人公に据えたところに、制作サイドの狙いがあったことは確かだ。
「わたくしにお任せくださりませ!」
という、底抜けに明るいセリフは、今でも印象深い。「まつ」を演じた松嶋菜々子は、170センチを超える堂々たる体躯で、織田信長、前田利家、佐々成政といった名だたる武将たちに交じり、互角にわたりあった。もちろん芝居の話だが。
「お任せくださりませ」というセリフも、松嶋菜々子のスケールの大きさがあってこそ活きたのではないだろうか。小柄ではかなげな女性が「お任せ~」といっても、「任せてみよう」という気にはならないだろう。
「まつ」という女性は、記録に残る限りこの時代、最多タイ記録の11人の子どもを産んだ「豪傑」だ。満11歳11か月(!)から32歳まで、約21年間に2男9女をなしたのだから、当時の常識・価値観からすれば、間違いなく最高の妻であり、母だった。
ちなみに、もう一人の最多記録保持者は、伊達晴宗(政宗の祖父)の正室・久保姫とされている。こちらは6男5女を設け、孫の政宗が豊臣秀吉の命令で仙台に移るころまで健在だった。伊達家のゴッドマザーのような存在だったのではないか。いつか機会があれば、この久保姫の生涯もドラマに描いてもらいたいものだ。
「まつ」は、夫の前田利家にも堂々と意見するような女性だったといわれる。蓄財に励む利家に対し、「吝嗇(ケチ!)」と言ってからかった逸話も残っている。
そういう「まつ」だからこそ、松嶋菜々子の堂々たる身の丈がハマったのだろう。これが剣に生きる宮本武蔵を待ち続けた恋人「お通」のような女性だと具合が悪い。
2003年のNH大河ドラマ『宮本武蔵 MUSASHI』では、やはり身長が170センチ近い米倉涼子が「お通」を演じていたが、これはどうにも違和感があり、可憐な「お通」のイメージとの齟齬は明らかだった。役者さんの(身長)のせいではなく、キャスティングの問題だと思うが。
さて、『利家とまつ』の名場面といえば、やはり利家・まつ夫妻にとって人生最大の岐路となった、賤ケ岳の戦いの顛末だろう。信長の死後、織田政権の後継をめぐり、織田家宿老の柴田勝家と、羽柴秀吉が激しく対立し、ついに琵琶湖畔の賤ケ岳で決戦となった。
前田利家は、織田家の独立した武将ではあったが、北陸方面に軍事展開する際には勝家に預け置かれる形となっていた。当時の言葉でいうと、勝家の与力だった。けっして勝家の家臣であったわけではないが、軍事的には勝家の指揮下に編制されていたのだ。
もともと利家は、若いころから秀吉と家族ぐるみの付き合いがあったという。まつも、秀吉の妻おね(ねね)と昵懇の仲だったとされている。利家はこのとき、勝家につくか、それとも秀吉に着くかで揺れ動いたとされているが、最終的には勝家に味方することになる。
秀吉は「賤ケ岳」で敵対した前田利家をなぜ許したのか?
『利家とまつ』では、秀吉が有利とみたまつは利家を説得しようと試みる。自分の意地や男気のために、兵の命を散らしてくださいますな、と。しかし利家は勝家を裏切ることはできず。秀吉と戦う決意をする。しかし武運拙く、利家は越前の府中城に撤退する。
すると、賤ケ岳で敗れた勝家が北ノ庄城に退却する途中、府中城に立ち寄る。勝家は、自分に気兼ねせずに、前田家を守るために秀吉に降ることをすすめる。
その翌日、柴田を追撃するため北陸に兵を進める秀吉が、府中城に単身乗り込んでくる。ここで両者の間に友情が復活。利家は秀吉の配下となることとなった。
——というのが、『利家とまつ』の物語だ。
では、この一連のできごと、史実ではどうなのだろう。
秀吉が勝家を滅ぼし、北陸平定を成し遂げると、秀吉に降っていた利家は、なぜか加賀国北二郡を加増されている。いったんは勝家に着いて秀吉と敵対したのに?
この処遇については、秀吉との旧来の友好関係が原因だとの指摘がある一方、利家は最初から柴田勝家を裏切るという密約を秀吉とかわしていたのではないか。つまり「出来レース」だったのではないかの指摘も古くからある。
しかし、賤ケ岳の戦いで利家は何人もの有力家臣を失っている。また、秀吉が利家の籠もる府中城を攻めた際には、実際に城に鉄砲を撃ちかけ、城内からも応戦した記録が残っている。
利家が秀吉に内通していたというのは、あくまでも状況からの推測に過ぎず、何の証拠もないのだ。ではなぜ、利家は秀吉によって厚遇されたのか。
東京大学史料編纂所名誉教授の岩沢愿彦(よしひこ)さんは、利家を厚遇することが秀吉にとって大きな「利益」となったからだと指摘した。
賤ケ岳の戦いののち、北陸は丹羽長秀と前田利家が支配することになった。この二人は、ともに後継ぎとなる息子が信長の娘を妻としていた(丹羽長秀嫡男の長重の正室は信長五女の報恩院。利家嫡男の利長の正室は信長四女の永姫)。つまり、織田家の親戚ということになる。
ちなみに秀吉自身も、信長の息子秀勝を養子としていて、明智光秀を討った山崎の戦いの際は、信長の三男信孝とともに、この秀勝を「弔い合戦」の旗印としていた。
つまり、「信長の血縁」を自らの傘下にいれることは、当時の秀吉にとって大きな力となったはずだ。信長の親族である利家を厚遇することで、自分こそが信長の後継者であるという立場を、強くアピールすることができたのではないか、という見解だ。
これに対し、石川県金沢城調査研究所の所員、大西泰正さんは、岩沢説を高く評価しつつ、利家の四女で、秀吉の養女となっていた豪姫の存在も大きかったのではないかと指摘している。
豪姫は、この数年後に、中国地方の備前国(岡山県)を本拠とする宇喜多秀家のもとに嫁いでいる。この縁談は、本能寺の変を聞きつけて急ぎ畿内に引き替えした「中国大返し」の途上で、秀吉から宇喜多家に持ち掛けられたとされている。
当時、秀吉は中国地方の大勢力、毛利輝元と対峙していた。信長の死によって、いったんは和議が結ばれたが、秀吉と毛利との間には、まだ領土確定をめぐる緊張関係が続いていた。
秀吉としては、毛利をけん制する意味で、毛利と領土を接する宇喜多家との関係をより緊密にしておく必要がある。豪姫と秀家との婚姻は、そのカギを握る重要事だった。とすれば、豪姫の実父である前田利家を粗略に扱うことはできない。むしろ、利家を厚遇して味方に引き付けておくメリットがあった。大西さんは、そう指摘する。
いずれにせよ、賤ケ岳の戦いの後始末という緊迫した局面で、利家と秀吉は、何らかの政治的なメリットを共有することで和解を果たし、以後、利家は秀吉傘下の武将として、天下統一事業の手助けをすることになったのだ。
身もふたもない言い方だが、ただ単に「幼なじみ」だから、奥さん同志も親しいから、という理由だけで、いったんは敵対関係となった武将同士が手を結ぶほど、戦国武将は「お人よし」ではないということは言えるだろう。
もちろんその時、まつが何をしていたのかは記録にない。利家を叱咤激励したかもしれないし、「私にお任せを……」と口にして、秀吉との間を取り持ってくれたかもしれない。「絶対にない」とも言えないのだから、そのあたりは、想像とフィクションの領域として、楽しめばよいのではないか。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。