麓から約30分。本丸跡から見る絶景
さて、何度も朝倉勢の侵攻を食い止め、織田勢の越前侵攻の本陣となった国吉城であるが、近年の発掘調査により戦国期の様相を留めつつ領国支配の拠点城郭へ改修された痕跡が明らかになった。
天正元年に朝倉氏が信長によって滅亡した後、国吉城主の粟屋勝久ら、旧若狭国守護武田家臣団は、「若狭衆」として信長の天下布武に貢献することとなった。
若狭国は一時の平和を歩んでいたが、信長死後の天正10~11年(1582~1583)、信長後継の覇権をめぐって、羽柴秀吉と越前の柴田勝家が対立した時、若狭衆を束ねる織田家重臣の丹羽長秀は、秀吉方に付き、若越国境は再び争乱の場になろうとした。
この折、柴田勢の侵攻に備えて国吉城の改修が行なわれたようで【『天正十年十月廿一日付 丹羽長秀書状』(『山庄家文書』)】、発掘調査でも積み方の荒い石垣が一部、山城本丸跡周辺に集中するように確認された。つまり、国吉城の石垣化である。
賤ケ岳の合戦後、新たに国吉城主となったのは、羽柴秀吉の家臣、木村常陸介定光で、定光は城の修築と城下町整備に着手した。山城部から麓の城主居館跡まで、横目地が通る統一的な積み方の石垣が広く分布し、総石垣化を目指したことが窺える。国吉城主唯一の織豊系大名居城期であり、天正13年(1586)春頃までには大名の居城にふさわしい城と城下が完成した。城下は現在も佐柿の町並みとして歴史的景観をよく残している。
国吉城の改修は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の戦功により、若狭一国を拝領した京極高次によっても行なわれた。若狭東方を守る境目の城として、算木積み(さんぎづみ)を導入したより堅固な石垣が城主居館に築かれた。国吉城の城としての改修はこの段階で終わり、京極氏が出雲国松江に転封する寛永11年(1634)まで、京極家の執政、多賀越中守が守った。
同年、京極家に代わり徳川譜代で老中や大老を歴任する酒井忠勝が入封すると、国吉城は廃城となり、隣接して佐柿町奉行所が建てられた。江戸時代、佐柿の町は丹後街道の宿場として繁栄し、明治維新後も三方郡の中心地として栄えた。
現在の国吉城址であるが、城跡の南麓には若狭国吉城歴史資料館が建ち、国吉城址と佐柿の町並みの歴史について紹介している。城跡へは、資料館から登るのがよい。資料館の背後は、三つの谷間に削平地群が段々と広がる城主居館跡である。昔から国吉城主と家臣団の屋敷跡と伝承されてきたが、発掘調査で各段に石垣や礎石建物群が確認され、伝承を裏付けた。
整備された遊歩道を15分ばかり登ると、途中で高土塁と喰違虎口が見どころの二ノ丸跡と伝わる曲輪に出る。しかし実は、城主居館跡からこの二ノ丸跡までが一番キツイ。いつまでも続く九十九折れの坂道と階段には心が折れそうになるし、息も切れる。でも「本丸跡まであと500m」、「あと400m」と。100m刻みで表示板があって、あとちょっと頑張ろう……という気も起こる。
二ノ丸跡から一気に直進の遊歩道を登ると、本丸下帯曲輪段に着く。この辺りからまた石垣が各所に見える。曲輪に沿って城山尾根筋に向かうと、尾根筋上に展開する連郭曲輪群のⅡ郭に出る。尾根筋を見下ろすと、眼下にⅢ郭、Ⅳ郭の段々が見下ろせ、振り返ると本丸跡の高台と尾根筋を分断する石垣造りの堀切が見える。北側に目を向ければ、若狭湾と敦賀半島の絶景が見渡せる。家並みはともかく、自然の海や山々の風景は450年前に信長や光秀が見た光景とあまり変わっていないだろう。ある意味、ここまで頑張って登ってきたご褒美的風景である。
最後に本丸に立とう。石垣造りの虎口や天守が建っていた可能性がある土壇は広い曲輪空間に点在する。もちろん、足元の佐柿城下の町並みをはじめ、小浜方面に伸びる旧丹後街道や遠く三方五湖まで見渡せる。
信長や光秀も見たであろう光景を、実際に登って目にしてほしい。
文/大野康弘(若狭国吉城歴史資料館館長)