信長は京都に縛られることを拒んだ
國學院大學教授で豊臣政権研究を専門とする矢部健太郎さんは、この点について独自の見解を持っている。
すでに近年の研究が明らかにしているように、永禄11年(1568)に上洛を果たした段階での信長の目標は「室町幕府再興」だったろう。しかし、信長の「政治的実力」を支える軍事力、すなわち主力となる軍勢は、尾張や美濃の武士が大半であった。となると、彼らを掌握し、有事の際には素早く軍勢を調えるためには、信長は本国の美濃を空けるわけにはいかなかったと、矢部さんは推測する。
ところが、管領や副将軍という立場になると、原則的には京都に常住しなければならなくなる。室町幕府の歴史をたどってみても、応仁・文明の乱の混乱によって、有力守護大名は本国である国元へと散らばっていったが、それまでは幕府の役職に就く大名は、在京して将軍御所近くに控えているのが常態だった。
信長の立場からすると、それは非常に困る。美濃と京を往復するのは、確かに面倒だが、まだ信長は京で「政権」と呼べるような確固たる政治的立場を確立したわけではない。戦となれば、尾張・美濃から軍勢を引き連れてこなければならないのだ。この段階で、信長が動員できる兵力は1万を超えていたはずだ。それだけの兵を、尾張や美濃から連れてきて、京で養うのも非常に難しい。彼らの宿舎はどうする?食料は?
そう考えると、本国から兵を簡単に引き離すわけにはいかなかったのだろう。
つまり、管領や副将軍への就任を拒んだのは、信長が京に縛られるのを避けたかったからではないか。矢部さんはそのように主張する。
これは非常に分かりやすい説明だ。室町幕府再興を目指していたとはいえ、信長の本質は尾張出身で美濃の岐阜城を本拠とする地方大名だ。下手に幕府の役職について、京に縛られるわけにはいかなかったのだ。
結果として、信長は室町幕府の「一員」となることはなく、いわば将軍義昭を支える外部役員的な微妙な立ち位置となった。
しかし、やがて信長は室町幕府や将軍が「権威」としては機能しながらも、実務を執行する政治機構としては、すでに過去のものとなっていることに気が付く。そして、自らが将軍に成り代わり、公権力としてふるまうことによって、政務がスムーズに進んでゆくという実感を抱いたのだと思われる。
しかし、それはもう少し後、元亀元年(1570)以降のことだ。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。