文/砂原浩太朗(小説家)
織田信長(1534~82)は日本史上、最大の著名人といっていい。その名を知らぬ日本人はまずいないはずだし、人気アンケートでもおこなえば、確実に1、2位あたりを占めるだろう。じっさい、近世の曙ともいうべきあの時代にあって、彼がはたした役割はきわめて大きい。筆者も、そのことに異議はない。
とはいえ、その生涯が「天才」「英雄」「革命児」といったひとことで片づけられがちなのも事実。これはかえって信長の実像を捉えにくくしているのではないか。本稿では、あえて天才史観を封印することによって、織田信長という稀有なる個性に近づいてみたい。
いくさ上手ではなかった信長?~意外に多い敗戦
信長といえば、まずは「桶狭間の戦い」だろう。1560年、「海道(東海道)一の弓取り」とたたえられ、2万5000という大軍をひきいる今川義元を、ほぼ10分の1の兵力で討ち取った。彼の武名は諸国に鳴り響き、現在にいたる英雄伝説の端緒となる。この戦いは奇襲戦の典型として旧大日本帝国軍に注目され、これも信長崇拝の要因となった。ただし近年の研究では、奇襲でなく正面突破という説が定着しつつある。
また、もうひとつ名高いいくさを挙げるなら、「長篠・設楽原(したらがはら)の戦い」。桶狭間から15年後、名だたる武田の騎馬隊を、織田・徳川連合軍の鉄炮隊が殲滅したのである。が、知名度の高さにもかかわらず、この戦いに関しては不明な点が多い。信長方の鉄炮が1000挺なのか3000挺なのかという問題からはじまり、有名な「3段撃ち」の是非、そもそも敵方に、世上言われるような騎馬隊があったのかという点まで解明されていない疑問が山積している。それでも、武田がおおきく勢力を減じたことは間違いない。信長の戦史上、特筆すべきものであるのは確かといえる。
一方、彼の軍事史を振りかえってみると、しばしば手ひどい敗戦や苦戦を経験していることに気づく。むしろ、華々しい勝利の方がすくない。敗北の例にはことかかないが、ひとつ挙げるなら、1570年、越前(福井県)朝倉氏討伐に出向いた折、義弟にあたる浅井長政が離反するという危機に見舞われた。かろうじて逃れ岐阜へもどる途次では、狙撃されて銃弾が体をかすめている。本能寺以前、信長の肉体がもっとも死に近づいた瞬間だった。ちなみに、この報復戦ともいえる「姉川の戦い」では織田・徳川連合軍が勝ちをおさめたが、当時の公卿が記した日記から、信長側もかなりの犠牲者をだしたことが判明している。
ほかにも、やはり同年、大坂本願寺、朝倉、浅井、六角といった反対勢力に四方をかこまれ絶体絶命の窮地に追い込まれた。この折は、将軍・足利義昭や関白・二条晴良の調停で朝倉・浅井と和議をむすび、一時的ではあるが難を脱している。また、最終的には決裂したものの、信長が武田信玄や上杉謙信といった名将たちと誼みを結び、戦いを避けようとしたこともよく知られている。正面きってぶつかれば、敗北の可能性が高いと分かっていたのだろう。じっさい、信玄には三方ヶ原の戦い(1572)、謙信には手取川の戦い(1577)で、信長方は大敗を喫している。けっして、無敗の勇将ではなかった。
むしろ筆者は、信長がたびかさなる苦杯をなめながらもその都度しのぎ、勢力を伸ばしていったことのほうに驚嘆の思いをいだく。一見、天才性とは無縁と思える忍耐力や粘り強さを、彼は合わせ持っていたのではないか。ひらめきと狂気だけで生き残っていけるような、たやすい時代ではなかった。
【信長オリジナルではなかった楽市楽座。次ページに続きます】