文/砂原浩太朗(小説家)

織田信長像

「天才」ではなかった織田信長~英雄神話の逆転(前編) はこちら

比叡山焼き討ちは1年前から通告あり?

新時代の先駆者というイメージがつよいため、信長は既存の権威など歯牙にもかけなかったように思われている。その総本山たる幕府や朝廷との関係を見るまえに、まずは、しばしば言及される比叡山延暦寺の焼き討ちを取りあげよう。

これは1571年に起こったことだが、前年に朝倉軍が同地へ逃げ込んだことを発端としている。このとき信長は、織田への合力、それがむりなら中立の立場を取るよう比叡山側にもとめた。果たされぬときは火を放つとの宣告つきである。これが1年後、実行にうつされたわけだが、こうして経緯を追っていくと、おかしな言い方ながら、それなりに手順を踏んでいることが分かる。中世の宗教権威である比叡山を焼き討ちしたことが、信長の革新性を象徴するものとされるが、実際は敵対勢力への報復にすぎない。火を放った事実は変わらないが、意味合いは大きくことなるのである。

また、このとき3、4000もの命をうばったとされるから、彼を擁護するつもりはまったくないが、この時代、大小を問わず寺院への放火は、どの大名もおこなっている。それだけで革新者ということにはならないのだ。信長の焼き討ち以前、すでに延暦寺では僧院などの焼亡がはげしく、その数10分の1になっていたという。彼の事跡が突出して知られているため特別視されがちだが、同時代の文脈に置いて判断すべきだろう。

「室町幕府滅亡=1573年」の嘘

革命児と見られがちな信長だが、じつは朝廷や幕府に対して慎重な態度を取りつづけている。といって、彼が心底これらの旧体制をうやまっていたとは思われない。足利義昭を征夷大将軍としたあと、管領や副将軍などの官職に就く要請を辞退しているから、取りこまれることを避け、権威だけをうまく利用しようと考えたのだろう。老練な政治感覚といえる。

また、13代将軍・義輝の死(1565年)をうけ、同年のうちに弟・義昭の呼びかけへ応じたことも明らかとなっている。斎藤氏との戦いがつづいていたため、じっさい美濃へ迎えられたのは3年後だが、彼がいちはやく幕府の権威に注目していたことが分かる。

信長の意外とも思える保守性がさらにあらわれるのは、1573年、敵対することとなった将軍義昭を追放に処した折。一般には、この年をもって室町幕府の滅亡とするが、じつは義昭が将軍位を剥奪されたわけではない。室町後期の足利将軍は、しばしば都を落ちて流浪していたから、この時点で幕府が滅びたと考える人は少なかったろう。信長は義昭の一子・義尋(ぎじん)を手もとへ引き取っていたから、いずれ16代将軍として擁立する意図があったと見られている。

その考えを捨てたのは、2年後、権大納言、ついで右大将となったころからだろう。これは源頼朝も任じられた官職で、信長は、その後も内大臣、右大臣と昇任をかさねているから、朝廷と協力し、幕府にかわる形でみずから政をおこなう決意を固めたのではなかろうか。

いずれにせよ、信長が義昭その人を害そうとした痕跡はない。将軍義輝を弑逆した三好氏などとくらべれば穏健とすら感じる。義昭へ個人的にはげしい怒りをいだいていたのは、17条におよぶ「異見書」を読めば明らかだから、いかに信長が感情をおさえていたかが分かる。幕府を重視していた何よりの証しだろう。

【信長と朝廷~対立説から融和説へ。次ページに続きます】

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