文/高橋義隆
写真家・牛腸茂雄(ごちょう・しげお)の名は、時々ゆるやかに浮上する。ちょうど今も、六本木にあるフジフイルム スクエアにて開催中の展覧会で、『日々』『幼年の時間(とき)』『Self and Others』という3冊から計30点の写真が展示されており、久々に牛腸の写真を見に足を運んだ。
36年という生涯で終えた牛腸に対しては、夭折、早世という言葉で語られることが多い。だが、牛腸の写真を見るとき、そうした彼の生い立ちを背景にして語ることに些細な違和感を覚える。
そしてまた、彼がカメラを持った1960年代後半から亡くなった1983年にかけて、日本の写真史において彼がどのように位置していたか、少し俯瞰した眼で見る必要があるように思える。
1946年、新潟に生まれた牛腸は、3歳の時に患った胸椎カリエスの後遺症によって身体的な負担を強いられることになった。
18歳のときにデザインの勉強をするべく上京し、桑沢デザイン研究所に入学し、2年の基礎科を経て3年のときに研究科で写真を選択した。このとき担任であった大辻清司(写真家)との出会いによって、彼の関心がデザインから写真へと向かった。
大辻は、学生時代の牛腸が撮る写真は造形的であり、街中で撮影したスナップ写真には人はなく、当時やはり桑沢で教えていた石元泰博(写真家)の写真を「引き合いにするような傾向」と述べていた(『deja-vu 920410 No8 特集:牛腸茂雄』より)。
同じく大辻の生徒であり、牛腸の先輩にあたる新倉孝雄(写真家)は、著書『私の写真術』(青弓社刊)の中で、牛腸が桑沢時代の課題で提出した写真が、石元の『ある日ある場所』に収められた写真と似ていることを指摘している。
また大辻から「新倉君の写真にとっても興味をもっていて、フレーミングから被写体とのスタンスの取り方まで、素早く手の内に入れてしまう生徒が現れたのですよ」と言われ、牛腸との出会いを述べる件がある。牛腸が桑沢に入学した1968年当時、新倉は『カメラ毎日』などで作品を発表していた。
こうした背景やエピソードを踏まえた上で牛腸の写真を振り返ると、彼の器用さと幸運な人物との出会いが合致したように思える。無論、模倣しそれを自分の掌中に収めてしまえることは才能と言える。事実、彼が残した写真集を振り返って見たとき、それは顕著に伺える。
桑沢の同級生だった関口正夫との共著『日々』でのスナップ、『Self and Others』におけるポートレートを比べてみたとき、それぞれ被写体との距離感に絶妙なバランス感覚を持ちつつ、異なる写真表現を提示していた。1981年に刊行された『見慣れた街の中で』は、カラーによるスナップ写真で構成されており、不安定なフレーミングもあり、決して完成度が高いとは言えないが、当時の若手だった北島敬三や山内道雄らによる写真と同時代の感覚を共有していたように思える。
つまり、当時の牛腸は、新たな世界観を築くことを模索していたように見える。だが、彼の写真行為は、ここで終止符を打つにことになった。
フジフイルム スクエアの壁面に展示された写真を見ながら、牛腸茂雄という写真家は、彼が通過した戦後における写真史を背景にすることで、これらの写真から表出される輝きの本質が評価できるのではないかと感じた。
文/高橋義隆
ライター。『日本写真年鑑』(日本写真協会より刊行)にて写真家へのインタビュー、書評等を執筆。また、同人による「写真の会」では写真に関する批評等を寄稿している。近々、5人の写真家を取り上げた初めての単行本を刊行予定(青弓社)。
【GOCHO SHIGEO 牛腸茂雄という写真家がいた。1946 – 1983】
■会期/ 開催中~2016年12月28日(水)
■時間/10:00~19:00(入館は閉館の10分前まで)
■会場/ FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館
東京都港区赤坂9丁目7番地3号
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